追加
なんか書き足りないなぁと、思ってたんですが…
結局、脳死臓器移植の私にとって最大の問題は、命の重さに「役に立つ・立たない」という価値判断を絡めていることに対する嫌悪感なのかもしれません。
ちょっと考えてみます。
人の命の重さに「普遍的な」役に立つ・立たないという価値観を絡めることは適当なのでしょうか?
…という以前に「普遍的な」役に立つという事象はどれだけあるのでしょうか?
例えば、アラビア数字などは普遍的に人類の役に立つと言ってよいでしょう。
しかし、人の命はそう簡単に役に立つ・立たないと区分けできるのでしょうか?
私は、そんなもんじゃないと思っています。
脳に障害を持って生れた子供は誰の役にも立たないのでしょうか?
たとえ一生寝たきりであっても、その子を支えに生きている親御さんがいても不思議じゃないでしょう?
親御さんの心の支えになっているという視点からは、その子は立派に役に立っているのです!
(乱暴な言い方になりますが)脳死臓器移植は、役に立たなくなった「死体」から臓器を摘出して、別の「生体」を役に立つ状態にすることではないでしょうか。
ここで私が言いたいのは「死体」→「生体」の物質的な移動よりも、むしろ、「役に立たないものは見捨てる」=「役に立つものは助ける」という考え方がはたして正しいのか?ということです。
そこで問題になるのは、「役に立つ・立たない」の切り分けが普遍的に正しいものとして成立しうるかという点です。
時間と目的を短く絞って個別の事象に限定して考える場合は、役に立つ・立たないという判断はあり得ます。
しかし、時が過ぎ目的が変われば、それまでの価値観が逆転することもあり得ます。
最近の事象(流行)でいえば「エコ」がそれにあたるでしょう。
ちょっと前までは、エコなんてものは経済発展の阻害要因として排除されていました。
それが、今では経済発展の鍵として信奉されるありさまです(その中で「エコ」の意味するところも変容しています)。
まして、事柄は人の命です。
「汝殺すなかれ」「殺生戒」…人倫の基本ではありませんか?
それを、たまたま今という時点に限っての「役に立つ・立たない」という価値判断で左右してよいものでしょうか…。
ここで思い浮かべてしまうのが「靖国」です。
あの目的は、国のために戦死した人々を祀るものです。戦死とは…相手を殺そうとして返り討ちにあったということです。敢えてきつい言い方をしますが、国が殺人を強要したことを正当化する存在と言えます。
ここに、今回の臓器移植法案との類似性を認めます。
今回の法案は「死」の判断を本人(や、その家族)の手から取り上げ、未だ浸透しているとは言えない「法」の定義に従うことを強要していることになりかねません。
…自分が経験した「死」では、温もりが徐々に失われていき、そのことにより死を納得する時間がありました。
しかし、「脳死=死」と定義された場合。必ずしも同じような訳にはいきません。
場合によっては、まだ脈もあり、温もりもある状態で「死」を受け入れなくてはならないのです。
その定義が一般的に受け入れられて、初めて「法」で定義できるんじゃないでしょうかね。
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