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2008年4月

2008年4月28日 (月)

なんだ この裁判は?

出先でTVに流れていたニュース
この事件も随分マスコミにほじくり返されていたものだったが、量刑についてどうも釈然としない。
いや、釈然とする解釈はあるのだが、そこまでこの国の司法が腐ったとは思いたくない。

釈然としない点
・弁護側のみならず、検察側の精神鑑定結果においても心神喪失状態であったことが報告され、判決要旨でも、それらの鑑定結果は信用できるとされている。
・遺族感情を配慮したというが、一番近い遺族は加害者である。
・被害者による加害者への日常的暴力の存在を認めている。
・殺人行為後の隠蔽行為を以って、殺人に至った時点での責任能力を認定している。
これだけ、加害者有利の事実認定をしていながら、懲役15年って重過ぎない?
最初にあげた点からいって、死体損壊の適用が関の山だと思うのだが...。

釈然とする解釈
この法廷の裁判官が「人が死ねば加害者は原則死刑、または検察の言っていることは基本的に正しい」という前提で法解釈・量刑判断をしている。
…と考えればこの量刑判断も納得いくんだが、それでは被告・検察の間で中立的に事実認定をする裁判官のありようとして失格だろう?

えぇと、来年から裁判員制度が始まるんだよね…こういう裁判官に指揮された裁判員が判断する裁判って、人民法廷じゃないか(怖

(参考)
刑法第39条
 心神喪失者の行為は、罰しない。

同法第190条
 死体、遺骨、遺髪又は棺に納めてある物を損壊し、遺棄し、又は領得した者は、三年以下の懲役に処する。

夫遺体切断事件の犯罪心理学

東京新聞

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2008年4月26日 (土)

サーカスの国

パンとサーカス…古代からの統治原則だが、この国の政治を委任されている部門には、もうパンを作る能力がなくなっているのだろう。ならば、委任を辞退すればよいものを、サーカスの出し物を過激にしてごまかしているのではないか。

この国は…この国民はサーカスを見続けたがっているのではないか?
そして、サーカスのお題を探すことがマスコミの使命となっているのではないか?

ある事件でこういう報道があった。
そして、別の事件の差し戻し裁判の判決が出た。
両方の事件(および最近の諸々)から感じる不安。

前者の事件で、マスコミやネットに湧いた被害者へのバッシングを私は忘れていない。
被害者が日本の国内法で訴え続けることを断念したときの彼らの勝ち誇りっぷりを私は忘れていない。
そして、今…前者の事件について、米軍が加害者の行為を犯罪の可能性があると認めたことについて、彼らがその当時の自らの行動を振り返って語られているところは見当たらない(※)。
※わざわざ探したりはしていない。
 あの当時(といってもたかだか2月前のことだ)は見たくなくても、視界に入ってきたものだ。

それは何故か…
…あの事件も、彼らにとってはおもちゃに過ぎなかったということであろう。
…あのとき、マスコミやネットに溢れたセカンドレイパーがたった2ヶ月の間にほぼ全員改心したなぞという御伽噺は信じられないから…

そして、後者の事件…これはこの数年間にわたり、彼らのおもちゃであり続けた。
「吊るせ・殺せ」と大合唱の渦。そして、最高裁の差し戻し理由は、刑事訴訟法405条による上告を退けた上で、411条を適用している。さりながら、この事件については原判決では無期懲役とされていたわけで、そこに「無期懲役≒15年の有期刑」とかなんとかキャンペーンが張られて今回の死刑判決となった…が、無期懲役の理解が違っている。ことに近年になって仮釈放までの期間が長くなる傾向が見られることは留意すべきだ。
この差し戻し審理での弁護活動さえも否定する阿呆(職業:弁護士?)がどこぞの知事になっているということには、この国のサーカス化の進行を看て取られても仕方あるまい。

サーカスを見て拍手喝采している人々…
彼らが恐れていること…「次はお前だ!」と指を差されることなのかも知れない。
だからこそ、マスの中に身をおこう、次に指をさされないように大樹の陰に隠れようという心理がはたらいているのかもしれない。

彼らには、他の道があること、法治主義・民主主義こそが自分たちを守ってくれていることが忘れられている

眼を開けよう…次は自分かもしれないという恐怖に怯えなくて良い道を歩こう。
誰しも、この社会に生きる限りいつ何時加害者になるかもしれない。
そのとき、ネガティブな感情に基づく判断を下されることを回避する道は、「法の下の平等」を字義通りに機能させるしかないのだ。

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2008年4月24日 (木)

あぁ 腹が立つ

まったくもう、誰かに責められたくないって気持ちはわからんじゃないけど、なんでこう他人の言うことを真っ向から否定できるものかなぁ…
まぁ、それ位じゃなきゃ出世はできんわな…あんたがなんで、俺が尊敬している人みんなに嫌われていたかよぅく判ったよ。
ま、おとなしくしておこう。
あ、あとで責任転嫁されないために証拠をとっとかにゃいかんなぁ…これはこれで結構しんどそうだ。
寝首をかくのはやつの方が上手だからな…
まったく、口と書類に手間をかけるより、手を動かした方がなんぼか早いのに。

自分が手を使ってない輩に、手の動きを説明することがどんだけしんどいか。
あぁ、早く出世なり独立なりして俺の前から消えてくれぇ!

(はい、ここは私の愚痴のはけ口です。)

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2008年4月20日 (日)

情と知は対立するものか?

私は情に溺れやすい人間であると自覚している。
それゆえ、知と情が己の中で対立したように感じるときには知を選択するように心がけてきた。
その選択により人生で大失敗もしている。また、情を抑えきれないことによる失敗も数え切れない。
ところが、そんな私を冷静沈着・冷淡・薄情者などと評価する人がいたりするから面白い。

ところで、コミュニケーションにおいて情と知は対立するものなのだろうか?
あるいは、情は知によって克服されなければならない負の存在なのだろうか?

たとえ、動機が情にあろうとも、他者に対する発話は一旦知のフィルターを通すものである。
とすれば、情は知によって支配される存在なのか?
知は知のみにて存在しうるのか?
存在しうるものだとして、純粋に知のみにて他者とのコミュニケーションを行っている人が世の中にいるのか?

なんか訳わかんなくなってきたぞ。

コミュニケーションの成立とはなにか?

そもそも、何かを相手に伝えたいという発話の動機は情によるものではないか?
外部に自らの言葉を発したいというモチベーションは情ではないだろうか。

感情のままに知の制御をうけないまま吐露される発話。
あえて知のフィルターを外して行われる会話。
期待された答が返ってきて万々歳。
そんな会話もあるだろう(まぁ、普通は喧嘩になると思うけど…)。
でも、期待していた反応が返ってこなかったらどうしよう…。
いつも、その恐怖と期待をを抱えながら発話してるんじゃないんだろうか。
期待する反応を返してもらうために、自分の情を他者に理解してもらうために、知というフィルターをかけているんじゃなかろうか。

「情に溺れる」ことは克服される対象かもしれないけれど、情そのものまで克服する必要はないんじゃないかなぁ。

(いきなり話を変える)
知の蓄積が、情として顕れることだってあると思うのだ。
ある事象を目の当たりにしたとき、細かい理由なんて考える前に「あ、変だ」と反応することは、よくあること。
ここにおいて、変だと感じるのは知の蓄積の結果であることが多い。
いちいち理由なんか説明せずとも反射的に思考が進むってのは、その手の経験を積んだ(知を蓄積した)人のほうが多い。

(むりやり結論)
「情あっての知」であり、同時に「知あっての情」だ。
どちらか一方が、もう一方によって克服されなければならないと一般的に決め付けるのはいかがなものかと思う。

(誤解なきよう)
特定の条件下において、知をもって情を抑える(逆も)ことはある。
その条件はケースバイケースだ。

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気持ちが晴れないときは…衝動買い(いいのか?)

ここ数日気持ちが晴れない。
そんなときは、ヤケ食いか衝動買いに限る。

…で、AMAZONを見ていたら「ウィンター・ガーデン」が、以前から涎をたらして見ていたときの半額で出品されていた。
…クリックしてもうた^^;
…そうなると騎虎の勢、「夜会―中島みゆき」「海嘯」までクリックしてもうた。
…「ウィンター・ガーデン」に比べたら安いものだ…

これで、一応「夜会」関連の本は揃ったな…あとは文庫だけ入手済みの分のハードカバーだ…
そんなことして良いのか…という理性の声はもはや聞こえない(笑

ネットで買う古書の場合、現物の状態は古書店のブランドイメージに頼るしかないという一種の怖さがある。
これまで買ったみゆきさん系の本は、古書店がすべて「良」判定で、実際開封してみるとほとんど未使用では?というような状態の本が多かった。

ひょっとして、中島みゆき様の本は手袋して読まれているのだろうか?
そういう世界はちょっと怖い。
だから、私の手に落ちたこれらの古本は容赦なく手垢にまみれるであろう。

もう一つの可能性…「著者:中島みゆき」ということで、買い占めて倉庫に保管している業者がいるんじゃなかろうか…だとしたら…ゆ、許せん!!!

本は読まれてこその本。

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2008年4月17日 (木)

繰り言

立ち回り先で「実録・連合赤軍」という映画に端を発する言葉のやりとりがあった。

連合赤軍以降、右にせよ左にせよ【政治】を公然と語り合うことが困難になった印象がある。
右は反動に取り込まれることによって未来を展望することができなくなり、そして…いつのまにか【政治を語ること】=【左翼】=【過激派】=【排除されるべきもの】という刷り込みが浸透した。

自らを省みれば、幼いなりに平和・平等というものは追求するに足りるものということくらいは認識する年齢であった。
それだけに、平等や平和を追求するという目的の下に集ったはずの人々がなぜあのように陰惨な姿に変貌せざるをえなかったのか…今でも完全に解けたとはいえない衝撃であった。

そして、物言えば…という時代になっていく。
その時代にあっては、民青や民学同といった行動面においてのラジカルを失った部分であっても、容赦なく排除された。
その排除は理論的な排撃ではなく、個々人の目の前の利害に訴えかけるものであり、それだけに効果的な反撃がなし得なかった。そして、その排除を正当化するための道具の一つに使われたもの--それが連合赤軍事件であった。また、その排除を正当化させるにたる悲惨な事件でもあった。

その攻撃に対する理論による反撃は、生活を確保するという強さが無いことに加え、メディアが報道したあの事件の悲惨さも相俟って、有効なものとはなりえなかった。

その後に続く年齢層の人たちには、「三無」とか「しらけ」とかというラベリングが行われた。
※三無とは「無関心」、「無感動」「無気力」のことなり。

大抵の人間にとって、三無になるのはむしろ当然である。
【余計なこと】に関心を持ち、感動し、それにのめりこむ気力をもったものがどういう扱いを受けるかを知ってしまえば、その扱いに耐えうるという自信を持ち得ない限り、大抵は逃避する。その心理を私は軽蔑することなどできはしない。

しかし、そんな時代の流れの中に三無であることを拒否した人たちも確かにいる。
深い情と鋭い知性をもって、物事に対峙している人たちがいる。
その人たちの営為に触れるたび、襟を正さなければと思う自分がいる。

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2008年4月12日 (土)

間違いなく見ないだろうけど

最近話題の映画「靖国」。
この映画、騒動になるまで知らなかったし今まで公開された情報からしても、間違いなく見ることは無いだろうと思う。
…思うが、今回の騒動は、日本の国内にある種の人々が一定の力を持って存在していることを、世界中に晒してくれた。
そのことは評価されるべきことだろう。
それは確かに日本人としては恥ずかしいことだし、海外で暮らしている日本人の中には肩身の狭い思いを余儀なくされている方もいらっしゃることだろう。
しかし、これが現実なのだ。

で、靖国神社…
そのありように異議を申し立てると飛んでくるのが「死者を政治の具にするな」という言葉なのだが、これは言う方と言われる方が逆なのではないかと思うのだ。
以前、ここの記事にも書いた私の伯父は「戦友は靖国に祀られている」という人だった。
靖国神社の存在を肯定する人の多くは、伯父と同様に「靖国神社を慰霊の場」としているのだろう。
そういう機能を彼の地に求めている人がいることは私も否定しない。

ただし、そういう機能を持って良いか否かの判断はまた別である。
問題は、靖国神社の由来と現状において「示威」の機能が大きいことである。
慰霊と示威、両者が共存しうる機構とは一体なんだ?ということだ。
明らかに顔見知りの近親者が祀られているとは思えないほどの年齢の子供が、異様な作業服姿で大挙して行進を行う光景は、さて、慰霊であろうか、示威であろうか。
はたまた、○○の会とかなんとかを名乗って集団で出向き、マスコミにその行為を報道させる国会議員たちの目的はいづれにありや?

仏式の慰霊に馴染んだ眼から見て、あれは慰霊ではないだろうと思うのだ。
明らかに国家主義者たちの示威行為だろうが…。
あのオバサンたちも、それが示威行為だということを自覚しているから今回の騒動を起こしたんと違うか?

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2008年4月 7日 (月)

耳栓が必要なので…

今更ながら、厄介な病気になったものである。
とにかく人の中にいるのが煩わしい。

そうはいっても生物としての生存本能は機能しているから、飯の種は欠かすわけにはいかない。
よって、通勤や勤務という苦行が毎日やってくる。
まぁ、勤務の方はしゃぁない。やり方次第である程度他人から離れていられる仕事だし。
問題は通勤である。
傍若無人な会話に留まらず、他人の気配がとにかく鬱陶しいのだから厄介である。

そんな時間に耳栓として愛用しているのが

 と 

クラシックのほとんど無音に近いピアニッシモでは流石に無理だけど、POPSを聞いている分にはほぼ完全に外部から遮断される。
スピーカーの直下にいても車内放送が聞こえないのだからたいしたものである。

ヘッドホンは、プレーヤーの最大出力が大きいので他の機種でも良いようなものであるが、自分がいやなものは他人にもいやだろうと考えてしまうので開放型のヘッドホンは使えない(音漏れがひどいから…)。音質もまぁまぁ好み(高音が伸びないのは嫌いσ(^^))。

プレイヤーも韓国製の良さが出ている。
とにかくファイル操作が楽。ドラッグ&ドロップで曲のファイルが転送できるというのはやはり便利だ。日本製や米国製の類似品は専用ソフトが必須なのに、そんな余計なものを使わなくてよいというのはPCにもストレスがかからない。
再生ファイルも、ライセンス料のいらないflacやoggに対応しているのがいかにも韓国製。
メモリ容量が大きいから、flacでも10枚位のアルバムが楽に入る。

でも、なぁ…本当はこんなもん使わなくても平気でいられなくちゃいけないんだよなぁ…。
他人の気配から逃げていると、実生活でも支障をきたす。
実際に電車事故の車内放送を聞き損ねたこともあるし^^;。

まぁ、こいつらを使わなくても平気で通勤できるようになれば、「治った」と言えるんだろうなぁ。

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2008年4月 5日 (土)

はしたない

はしたないという言葉がある。
私の経験は些細なことである。
そして、そんなことで大人が騒ぐのは「はしたない」とされていた時代・土地柄だったのだろう。

私の子供の頃…といっても高校生だったが、生徒会総会を延々とやったことがある。
議題は…なんだったかなぁ…忘れた(笑
とにかく、みんなが納得できるまでとことん話し合おうじゃないかということで始めた集会ではあった(裏で糸を引く集団と目された面子の一人だったりする σ(^^))。
かなり険悪な空気も流れたりしたが、教師は最後まで介入しなかった…介入しようとしたら追い返された。最後は、帰宅者が最終電車に間に合わなくなるということで散会したような記憶がある。

後日になって、一部の親から学校にいろいろクレームが架電していたということを知らされた。
なんでも「アカ」とかいう言葉も出ていたらしい。
それでも、教師はそれを生徒に知らせず、電話に粛々と対応していたとのことであった。
クレームの存在を理由にして、生徒の活動を萎縮させようとはしなかったのである。

クレームをつけてきた親の方も、それより大きく騒ぐようなことはなかった。(小さな田舎のことであるから、騒げばそれなりに私たちの耳に入ることになる)
騒いだところで、別の親たちが「子供たちのことにいちいち口をはさむなんて、はしたないことしなさんな(そんなに手前の子供が信用できないの?)」と抑えて終わり…だったのだろう。

さて…昨今の君が代斉唱問題…
起立・斉唱を強要する側に「はしたない」という感覚があるのだろうか。
君が代斉唱の指示に対して着席程度の意思表明をした子供たちの目に、彼らはどう映るだろうか。
それまで一緒に生活の一部を共有していた教師を罵倒する行為が、子供たちの目に快いものとして映るだろうか。

ほんと、もう「はしたない」行為は止めなされ。
自分たちの主張を成熟した大人のものとして見てもらいたいなら、はしたない行為は逆効果ですぜ。
…そりゃ、ガキの騒ぎで結構というならそれでも良いけど、年齢的に大人といわれる部類に入ってるのなら、それこそ「責任」はついてまわりますぜ。
威力業務妨害とか脅迫とか名誉毀損とか刑法に規定はあるんですがねぇ…

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2008年4月 2日 (水)

2006年11月を思い出す

Gazing at the Celestial Blue様のところの記事を読んで、一年余り前(2006年11月)のことを思い出してしまった。
あのときより事態は深刻な気がする。

あのときは生徒さんの側の対外的なアクションに対するリアクションだった。
今回のケースは、産経新聞社(およびその裏にいる連中)が、積極的に悪意を向ける先を探し出したように思うのだ。
何というか、日本は監視社会を志向しているぞ、俺はその尖兵たるぞと産経新聞社(およびその裏にいる連中)が宣言しているような…そんな薄気味悪い気持ちのすることだ。

前掲記事にも引用されているが、なんでわざわざ2週間経ってから報道するのか?
それだけの時間があったのに、特定の学校だけを取り上げるのか?
意図は明白だろう…その学校を特殊な存在と印象付け、特殊な存在=叩くべき存在と認識させようとしたのだ。
それを補強しようとしているのが、街宣をかけたり、罵声電話や無言電話をかけている連中だ。

君が代なんて、たかが歌じゃねぇか。
いちいち起立しろとか、歌えとか命令していてどうすんだよ。
国歌だから命令しても歌わせなきゃならないのか?
笑わせるんじゃないよ。

それとも…お上の命令が無ければ行動しない人間を作りたいか。
上見て歩くな、下見て暮らせ…てか?
そんなにこの社会を閉塞させたいのか?
日本から自由な発想を生む活力を奪いたいのか?
それで、この社会に何が得られる?

門真三中の先生方には頭の下がる思いがする。
今のこのご時勢に、君が代が背負った過去をきちんと伝えたのだから…。
そして、自分の判断で着席なり起立なりした生徒さんがいることに安堵する。

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2008年4月 1日 (火)

啖呵(浅田次郎 天切り松)

久しぶりに本屋に寄った。
平積みの新刊文庫の中からひょいと選んだのが天切り松闇がたり 第4巻 (4) (集英社文庫 あ 36-15)
切れの良い東京言葉で啖呵切ってる。

例えば…
---前掲書85ページより 引用開始---
「善悪は数の多寡で決まるわけじゃありませんぜ。大勢の人間がそうと望むなら、戦争だって善行ですかい。世の中の空気なんてものは、政治家が企んでテレビや新聞が異議なしと言やァ、茶を沸かすより簡単にこしられられるものさ。悪い世間をはっきり悪いと言ってこその善人だ。」
---引用終了---

浅田次郎氏がペンクラブの講演でイラク派兵反対をしていたのは知っていたが、作品でも切れの良い啖呵である。
そう、「多数決」という手段を「民主主義」の本質と取り違えている阿呆な国会議員のいるこの国で、よくぞ言ってくれた。
この小説の舞台は昭和初期だが、まさに現在の状況を示している。
この本は一連の天切り松の中でも、一番この手の啖呵に満ちている。

今のへんてこな状況に鬱屈している人にお勧めである。

なお、前述の阿呆は某与党の幹部(複数)であるが、いちいち発言を記録はしていない(当方そこまで暇じゃない)。当該政党およびその支持団体の構成員は昔からそう主張して恥じることが無いらしい。

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