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2008年7月

2008年7月19日 (土)

何故に消費税?

昨日の夕刊見てぶっ飛んだ。
全国知事会、消費税率引き上げを提言」である。

この不景気に、さらに景気を悪化させる提言を行うとは信じがたい愚挙である。
一応、全国知事会のHPで内容チェック。(内容は上のリンク先)

なるほどなぁ、こういう発想をするんだ…(-"-)

・地方消費税は、偏在性が小さく、景気変動の影響を受けにくい安定的な基幹税

そりゃ、確かに偏在性は少ないよな…そこに人が金を媒介として生活している限り、とることができる税だもの。
ただな、景気変動の影響を受けにくい…ってな…、簡単に言うなよな。
これから景気がよくなっても、税収は少ないまま…で良いと言うのかね?

この提言から読み取れることは、「地方行政の財政が苦しい=獲りやすいところから獲ることを認めろ」という主張だ。
獲られる方がどう思うかは考慮されていない。

行政の役割は住民サービスだっていうよね。それは、民間に任せていては落ちこぼれる階層(有体に言えば「貧乏人」)へも、憲法25条に規定されたサービスを提供することではないかね?
言い換えれば、富の公平化(所得の再配分)でしょ。
年間所得ン億円なんていう人なら、別に行政に頼まなくても民間のサービスで賄えるんだから…。

その財源を逆進性の強い消費税で賄うってのは、収奪する側の論理に過ぎないし、結局蛸が足を食うようなもんでいつか破綻する。そして破綻したときにはパニックである。
(逆進性の強さはここ参照:財務省の資料だよ。見事なくらい低収入=高負担が明記されてる)
それより、今「好景気」に湧いているというところから獲ることの方が先ではないか。
端的に言うと、法人税の減税特別措置はまだ続いてるんだよね。【恒久的】所得税減税はもう取りやめになってんだけど…。
こういうところを先ずちゃらにしてから、貧乏人からふんだくることを考えてもらいたいのだな。

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2008年7月13日 (日)

プライバシーガラスは嫌い

いつも愛車の点検整備をお願いしているディーラーから突然の電話。
ここ何年か、点検の時に買い替えのセールスは無かったのでもうとっくに諦めていると思っていたのだが…。

「燃料代が高くなったねぇ」とぼやいたら、すかさず
「AとかBとかに替えれば燃費、倍ですよ」
…いや、AとかBとかの燃費が今乗ってる車よりはるかに良いのは判ってるんだが、買い換える金が無いんだけど。
「ローン金利とか勉強しますよ」
「いや、大体Aは良いなぁと思って調べたことはあるんだけど、オプション設定が…」
「え、いろいろありますよ」
「俺、プライバシーガラスって嫌いなの。でもってオートエアコンは欲しいの(実はAでオートエアコンを付けられる車種って、デフォルトでプライバシーガラスがくっついている)」
「……うまくいかないものですねぇ(笑)。ま、来週タイヤのセールやりますから一度来ませんか。」
「(タイヤが減っていて不安なのは確かなので)そっちの話なら行きますよ(^^)」

些細なことなんだけど、いまどきの新車には普通についてるプライバシーガラス(以下スモーク)って、我が愛車を購入したころは一般的でなかった。
で、運転していると傍迷惑なんだな。なんせこの手のガラスをつけた車の後ろにつくと、その前の車が見えない。これって結構怖いのだ(私の運転が下手というのは大前提)。前の前にいる車がどう動いたか判れば減速判断も早めにできるんだけど、前がスモークだとこれが見難い。実家に帰って田舎道を転がしているときには車間距離を空けられるから良いのだけれど、都市部では下手に車間を空けると、まぁ、原付やら自転車やら歩行者やら四輪やら滅多やたらに飛び出してくる(特に怖いのが原付)。
さらに、スモークと太陽の角度によってはリアウィンドウが鏡になってしまうのだ。これは後続車にとってはかなり鬱陶しい。
そんな恐怖を味わっているから、自分がスモーク付きの車に乗ってたら、追突される危険が高くなると妄想するのだな^^;。今の車を買った頃には、スモーク付きの車の運転は傍若無人なのが多かったから、なおのこと、そう感じるのだな。

大体、公共の場である道路でプライバシー云々って根性がみみっちい。道路を走っているときに他人様に見られて迷惑なもの積んじゃいけないよ(見られたくない行為ってのは運転中にしちゃいけないってのはそれ以上に当たり前)。

さて、来週売り込みかけられたらどうしよう(スモークじゃない車にオートエアコンつけるからって言われたら…まぁ、素直に「金が無い!」って言うしかないな)

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2008年7月 5日 (土)

古臭いテーゼ

「ルンペンプロレタリアートはプロレタリアートに敵対する」なんてのはとっくの昔に消えたテーゼだと思っていたのだが…。
未だ生きているらしい。

底辺労働者の悲哀は、底辺にいないものにはわからねぇ…って、言うのは勝手だけれど、傲慢に過ぎるんじゃないのかな?
だったら、それを改善するためにはどうすんじゃ?ってこと。手近にいるものをプチブル扱いして攻撃することが、その方法なのか?
攻撃している個別の「敵」が自分たちと同じレベルまで落ちたら、それで満足か?
そうじゃねぇだろ…そりゃ当座の鬱憤を晴らすだけならそれでも良いさ…でもなぁ、敵はそこかよ?
そうやってるうちに、味方がどんどん分断されてるってことに…何故気付かない?
本当は味方として共通の敵に対することもできたはずなのに、易々と分断されている。
なんでだよぉ?

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評価するということ

片言隻句を以って全人否定(肯定)の評価を下すことは、正しい評価の姿なのだろうか?
どうも、最近気になってしょうがない。
A(という人)のa(という発言(行為))には合意できるが、b(という発言(行為))には合意できない。
普通、そんなことは当たり前にあるんじゃないかと思うのだ。
そういう判断の基準を個々人が持っていることが、民主主義社会の基本だと考える。
これが、aをしたからAの発言(行為)は全て正しい。したがってAが為したbも正しいものとして受け入れなければならない…これは判断するという責任の放棄であり、全体主義への一里塚であろう。

具体的な事例として…ナチズムの入門編…(ソースは実家の本箱の中に埋もれてるんで提示できない;興味のある人は図書館なり、本屋なりへ行ってくれ)
ナチスは、ケインズ的経済政策により困窮したドイツ経済を一時なりとも立て直すことに成功したかに見えた。
この事実によって、ナチスのホロコースト・侵略戦争行為は肯定されるか?

されるわけが無い・・・と思うのが、民主主義はその社会を構成する個々人の自由を相互に尊重されることによって成立するという私の定義から導出される結論だ。

まぁ、上の事例は大げさと思う諸氏が多いとは思う。しかし、自戒をこめて言うのだが、往々にして安易な2択をしているんじゃなかろうか?特にネット上では…リアルな社会では安直な2択なんぞできはしない。
また、aという「正しい」行動をしたAが、bという「誤った」行動にでたとき、X,Y,Zといった人がaは正しいがbは誤りであるという指摘をすることはそんなに間違ったことじゃないと思う。
Aが民主主義的感性を持っているなら「あ、そうか m(__)m」で一旦事は収まり、A,X,Y,Zでb'という正解を一緒に探すことができるんじゃないかと思う。

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