« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

2008年12月21日 (日)

夜会ステージアート

今回の夜会、開場待ちの間もボケーと並んでるだけにならないよう、周辺にイベントを配置されていた。

-TBSのロビーで開かれていたステージアートから-
ツァーDVD でもちらっと出てたけど、こういうのを作ってイメージ合わせてるんでしょうねぇ。

夜会 VOL.7 2/2 のセット模型;
DVDでは前面の格子越しにしか見えなかったところが細かく描かれている。

Photo

Photo_2

こんな舞台下まで…人がいるよ ぉぃ

Photo_3

こちらは、夜会 VOL.10 海嘯
DVDでは舞台セットはジムニー・ロケ場面ではあちゃらのSUVだったけど
そんなことより、フェイはどこ~~?(完全に桜の花に埋もれてます(笑)

Photo_4

 

 

みなさん、ここでは写真パチパチ…でも、大抵携帯か薄型のデジカメ…
こんなの で撮ってたのは私位、浮いてたなぁ(~~;
はい、入場のときにはちゃんと預けましたですよ。

| | コメント (2) | トラックバック (3)

2008年12月19日 (金)

夜会vol.15(五)

…いやぁ、(二)を書き始めたときは、(三)と(四)が、あぁまで長くなるとは思わなかった(^^ゞ
なに、あれじゃ短い?
いや、そういうことなら夜会アンの皆様方の所に行ってね。

でも、あれは記憶に頼ってるからね。
細かい場面とかで記憶違いはあるだろうし、そこが鍵になってるところかもしれない。
また、(二)でも書いたように、解釈の背景にはその人なりの道程があるわけだ。
あれは、私の辿ってきた軌跡が書かせたもんだともいえる。

で…今回の夜会のテーマも、結構重たいもんだと思ってる。
パンフレットのあとがきに記されているみゆきさんの言葉に、はっとさせられる。
ここに丸写しするわけにはいかないんで、原文を読みたい方はyahでパンフレットを買って読んでいただきたいわけなのだが…。
この国では人の一生というものがなにか誤解されてるんじゃないかという みゆきさんの問いかけに同意するか、否定するか…はたまた第三の道を答えるか、それは本当に人それぞれだろう。

この夏から、ここでは何回か泡瀬干潟の件を記事にしている。人の一生というものですら簡単にリセットできると錯覚する…その心根が、泡瀬干潟埋め立てを典型とする環境の破壊・社会の破壊を容認しているのではなかろうか?
やはり、私は人間であり続けたいと足掻いているのかもしれない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月17日 (水)

夜会vol.15(四)

-承前-

前がえらく長くなってしまった(^^ゞ
…ほとんど力尽きた。記憶もだんだん薄れてきた…端折ろう;;
乞う DVD発売。

<登場人物は各場について最初だけパンフレットに書いてある通りに書きました。とはいっても、その場に登場した人物が本当にその登場人物だと言いうるのかは自信ありません(特に、安寿と厨子王)。その他の文中は適当に略します>

【承】水族館
舞台:水の底の水族館
登場人物:暦売り、水族館の飼育員(姥竹)、脱走した花嫁、左官、安寿、厨子王
時間設定:不明(おそらく現代)

ここは「リセットしたはずの過去」の溜まり場。弟を縁切りした安寿がたどり着き、安らけき寿を捨てた花嫁が飛び込んで来、そして愛する家族をうまうまと奪われてしまった母が潜む、そういう「リセットしたはずの過去」の澱みが水族館の魚たち。

非常に抽象化されたビニール風船のような魚たちが吊るされている。
中央の舞台は、やけに古ぼけた感じの壁。その壁に取り付けられた扉をヨッコラショという感じで開いて、暦売りが入ってくる。えらく疲れた感じ。
この時に流れる暦売りの歌、如何にも疲れたぁ…という感じが出ている。一幕目の暦売り登場の場面と、大きく違う。(一幕目の暦売りは、さぁ仕事するぞぉ(^^)/という感じ、ここでの暦売りは仕事が終わらねぇ(;O;)という感じ…で)
暦売りは履いていた藁靴を脱ぎ棄てて、ひとしきり愚痴る。ここで藁靴というところがポイントの一つ、山椒大夫では、安寿が入水した沼のほとりに藁靴が一足残されていたとある。したがって、ここでの暦売りは安寿の姿とも見える。
愚痴を終えたのち、幽霊交差点を歌いながら、魚たちと戯れる。この歌、トーンはまったく異なるが心守歌 に収録されていたあのバスにを思わせる。
音楽がいきなり変わり、飼育員登場。魚たちに餌を与え始める。暦売りにも餌の魚を押し付ける。
飼育員の目には、暦売りも他の魚たちと同じ存在に見えるのだろう。この飼育員は次に出てくる脱走した花嫁にも同じように接する。花嫁は嫌がって逃げるのだが、飼育員はしつこく追う。
そう、ここは誰かがリセットした過去が集うところであり、その過去が記憶の底から浮かんでこないように、飼育員が抑え込んでいるのだ。
ここでは、暦売りも花嫁も、誰かが封印した記憶だ。

しんみりした気分にさせる進行の中に、突然左官が現れる。それも扉からではなく、屋内消火栓の収納箱から…。左官については、古代官位制度の主典(さかん)との掛詞で、出世した厨子王を暗示している。
で、有機体は過去を食らふの歌の中、舞台の壁や階段に何かを塗りつける。この塗りつけた何かも意味が隠されているのだろうが…。
そして、左官は消火栓に戻っていく。この左官の登場と退出の形から、左官は暦売りや花嫁とは異なる存在であることが覗える。彼はリセットされた過去ではないのだ。
左官が塗り仕事をした面に暦売りが、暦をペタペタと張っていく。流れる歌は私の罪は水の底、ここでいう罪とはなんなのか。リセットされるような過去が罪なのか、それとも過去を忘れ去ろうとするのが罪なのか。
そこへ左官 再登場。先程暦売りが張った紙を見て激怒、「タワケェ」と叫ぶ。…飼育員(姥竹)が、名を呼ばれたと勘違いして登場。ここからの左官と飼育員のやり取りで、飼育員が姥竹であるのみならず、安寿の過去を背負っていることが明らかになる。
ここから、なぜか毬が飛び出し、例によってバスケットボールが始まる。このバスケットには左官、飼育員に花嫁まで参加。しかし、暦売りは参加せず、脇から楽しそうに見守っている。まるで母が子供たちの戯れるのを見守るように。
左官、飼育員、花嫁がバスケットに興じながら場面から去る。
飼育員がいなくなったためか、魚たちも舞台から消える。
そして、消火栓の火災報知機が点滅を始める。これは前幕での縁切寺の炎上に呼応するものと思われる。
縁切寺という過去を呼び寄せる仕掛けが無くなったのだから、もう、過去をつなぎとめておく水族館の役割も終わったのだ。寺の炎上に呼応して水族館も燃え落ちる。
暦売りは逃げ出そうと扉に取っ組むが…開かない。扉に体を寄せて崩れ落ちる暦売り。
そして、鐘の音が鳴り響き、場が変わる。

【転】船
舞台:水の底から水面
登場人物:母、姥竹、安寿、厨子王
時間設定:不明(おそらく平安時代)

この場がどこから始まるかについて、私は鐘の音を切りにしたが、異論はあるはずだ(私も少々迷った)。
リセットした過去たちが水族館から解放され、暦売りだけが取り残されている。
そこへ飼育員・花嫁と左官が登場。
定め書きを読み上げ、厨子王(左官)と安寿(飼育員)の過去の交差点、分岐点となった時間が明らかになる。
そして暦売り(母)にそれを突き付ける。ここで始まる十文字の音楽とともに安寿、厨子王と姥竹は消火栓をくぐりぬけて退場。

一人残された暦売り(母)がほうやれほを歌い始める。
-------------------------------------------------------------------
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。
-------森鴎外作 山椒大夫 より--------------------------------------

歌の中には、子供たちへの思いだけでなく、旅をするきっかけとなった夫への切ない思いも歌われている。過去への後悔・懺悔に満ちたこの歌…切々と歌い上げるこの歌の最後を、「百九番目の除夜の鐘…」の歌声が圧倒する。
後悔ばかりでは前進しないこと、流れている歴史の中で後悔に囚われ、懺悔するのみでは何も解決しないことを示すかのように、百九番目の除夜の鐘の音の中で、母は倒せ伏す。

そして…ゆっくりと起きなおり
「泥から生まれて 泥になる。
泥を食ろうては 生きてゆく。
誰が悪いじゃないけれど
私は ここにいる」
とつぶやく。ここから紅蓮が歌われる。
誰にも見られない真夜中に紅蓮は開花する。この暗示。後悔や懺悔を乗り越えたとき、初めて人の豊かな一面が開花することの暗示のように…。
母が着ていた着物を一枚脱ぐ、純白の修験者のような衣装。つまり、この脱いだ着物は蓮の華の開花前の固いつぼみか。人を抑圧する後悔や懺悔の気持ちか。

そして…赦され河、渡れが激しい調子で流れ出し、天井から船が下りてくる。場面の照明も一段と明るくなる。
水底から浮き上がってきた厨子王、安寿、姥竹(みんな純白の狩衣姿)が、母の手を借り、水面に躍り出る。
三人とも船に乗り込む。屈託のない解放された笑顔で空を見上げる。

場面の照明が落とされる。赦され河、渡れの歌だけは続いている。

【結】今晩屋
舞台:不明
登場人物:今晩屋
時間設定:不明
用語定義:ステージ=いわゆる舞台、舞台=ステージの上に一段高く設えられた演舞台…これ定義しておかないと、この場の演出が説明しにくい。

物語がハッピーエンドで終わる設定なら、前の場でエンディングのはずなんだが…。

赦され河、渡れの歌に被るように夜いらんかいねが始まる。
今晩屋…この言葉がどうにもわからなかった。しかし、暦売りの役割を考えると、人々がリセットしたはずの「過去」を蓄える存在かなぁ…と。リセットなぞ出来ない過去を…リセットしたはずと錯覚させることで、人々に平安を売るのが、今晩屋 なのかな?
いやいや、そんなもんじゃなさそう。
おそらく、鍵は夜の対価が昼であること。
人は人として生きるうちに、何度か押し殺したい/消し去りたい過去を有するものだ。しかし、その過去は記憶の表層からは消え去ったように見えても、人の記憶の中に澱となって淀んでいる。圧し込めた過去が多ければ多いほど、現在の分岐点において、圧し込めた過去が「あの時 あぁすれば…」という後悔となって甦るのだ。
その後悔は、圧し込めた過去に纏ろう楽しかった記憶とともに甦る。
今晩屋は過去そのものではなく、後悔を、涙を拭い去る商売なのだ。だからこそ、楽しかった過去(昼)を対価とするのだ。

ラストの曲、天鏡がゆったりと始まる。その歌は徐々に力強くなり、朗々と歌い上げられる。
それに合わせ、ステージ一面に水が流れ落ちる。この水は、涙…舞台は涙の中の瞳である。

エンディングの伴奏が流れる中、みゆきさんが膝まづいて客席に深々と頭を下げる。
-幕-

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月16日 (火)

夜会vol.15(三)

-承前-

<登場人物は各場について最初だけパンフレットに書いてある通りに書きました。とはいっても、その場に登場した人物が本当にその登場人物だと言いうるのかは自信ありません(特に、安寿と厨子王)。その他の文中は適当に略します>
【起】縁切り寺
舞台:縁切寺(尼寺)
登場人物:暦売り、縁切り寺の庵主(姥竹)、元・画家のホームレス、脱走した禿、安寿、厨子王
時間設定:現代の大晦日、除夜の鐘が響くころ

場内に流れる鐘の音、照明が落ちてからもざわついていた客席が静まりかえる。
ゆっくりと流れ出す十二天のメロディーの中、舞台の前(袖じゃありませんぜ)に作られた段をゆっくりと上ってくる暦売り。

ここからの口上で、みゆきさんの仕掛け、というか問題意識がだんだん見えてくる。
・時は除夜、大晦日に暦を買う人はいるのだろうか(ここで、「わたしゃ買いますよ。安売りしてるから」と御考えの貴方…御尤もですが…ねぇ(^^ゞ)。
・除夜の鐘ってのは、大晦日に撞かれるもんだよね。大晦日は一年の締めくくり、私たち凡俗はこの日を一つの区切りとして生きている。新年の始まりに「昨年のことは忘れて今年が好き年でありますように」なんて挨拶…聞いたことありませんか。さてここで疑問…なんで一年の締めくくりは大晦日じゃなきゃいけないの?12月31日と1月1日の間は、1月28日と1月29日の間と何が違うの?除夜の鐘はこの一年をリセットする仕掛けじゃないの?
・暦ってのも、昨日(日めくりの場合ね…月単位なら昨月)の分はどうしてる?大抵捨ててるよね。これは昨日の紙を剥がすことで、昨日をリセットしていることにつながるんじゃなかろうか?
・縁切寺…一般には、夫婦の縁を切る(リセットする)ことで、人生をやり直す仕組み。この夜会では売られた子供が駆け込んでくれば、その子の人生をリセットさせる仕組み。

夜をくだされから海に絵を描くが歌われて、元画家が登場。
この二曲、タイトル『今晩屋』にもつながる伏線が隠されているようだったんだけど、か、歌詞がぁ…;;。
で、この元画家…記憶喪失なんである。しかし、何かに追われていること、何かを忘れてしまったということだけは覚えていて、その何かを探し求めているという奇妙な記憶喪失なんである。
名前まで忘れてしまって、暦売りに名前を売っていないかと問い質す。
何かの約束をしていたらしい<ここ重要
不思議なことに暦売りは彼の過去を知っているような素振りを見せている。暦売りが萱草という言葉を囁く。何かを思い出しかけているような素振りを画家が示し始める…と、そこでいきなり暦売りはここまでの料金一万円と称して手を差し出す。当然、画家は何のことやらわからない。わからないなりに「高い」と抗議…「タカイ」→「タケエ」→「タケェ」と…

ここで庵主(姥竹)登場。この人名前を呼ばれると必ず出てくる設定…画家の「タケェ」の声に呼応している。
かいがいしく、というかおせっかいというか、画家の世話を始める。嫌がって寺の床下に逃げ込む画家の足を掴んで引きずり出してまで世話を焼こうとする。この辺の庵主と画家のやり取り、結構笑える…しかし、ここは夜会である、誰も大声で笑ったりはしない(笑。
この間に、暦売りは寺に忍び込んで柄杓を持ち出している。流れる歌は私の罪は水の底
暦売りは柄杓を荷造りの中にどう納めるか考えている。そこへ庵主から逃げる画家が体当たり…柄杓は舞台の外へ飛ばされる。それも二度までも。暦売りは画家に食って掛かるが、画家は庵主から逃げるのに夢中で暦売りを相手にしない<この、暦売りの柄杓への拘りが気になるんだよなぁ。

暦売りも柄杓を諦めて、荷造りを始める。このとき歌われるのが百九番目の除夜の鐘
柄杓を入手できなかったせいか、荷造りもいささかやけっぱちな感がある。

この歌の間に寺の裏から禿登場。いかにも無邪気に暦売りの周りをうろうろするんだけど、暦売りは気がつかない。そうこうしているうちに、禿が先程暦売りの失くした柄杓を持ってきて、暦売りの後ろにそっと置く。
暦売りがヒョイと振り返って、禿に気づきびっくりする。禿はどこかへ消える。
暦売りは柄杓があるのに気づき、庵主を呼び出す。
庵主の説明で、禿が売られた先から逃げ出した子供であり、何かの約束に縛られて縁切寺へ逃げ込むことができずにいる幽霊であることが暗示される。庵主は説明を終えると、柄杓を暦売りから取り返して寺の中に入る。
ここで暦売りの独白。
約束事はその場の気持ち。嘘つく気持ちは無かろうとても、守るに守れぬ成り行きもある…売られた子供は待ちぼうけ」<ここ すっごく重要
独白のあと愚かな禿が歌われ始める。この「愚かな」というところ、重要。愚かさは王様は裸だと叫んだ子供の姿につながる。愚かなるが故にか、縁切寺というツールを使わず、ひたすら約束を信じ待っている。

禿は毬をついている。
さて、ここからがネットの一部で物議を醸しているところなんだけど…。
この毬つきを寺の床下から見ていた画家が現れて、禿と一緒に遊び始め、毬つきがバスケットボールに変わる。
この意味はなんなのか?
ここで、「安寿と厨子王」のモチーフが被る。二人とも相手を姉弟とは認識していない。しかし、その関係が切っても切っても切れないもので、幾百世を越えても彼等がつながっていることをこの場面は示しているのではないか。二人の間を行き来する毬は、二人の間で共有されていた「時」ではないか。

う、だんだん記憶が薄れてきたぞ(^^ゞ

バスケットボールに飽きたのか、画家は舞台から再び消える。禿はまた一人になってしまう。
そこに流れるのが憂き世ばなれ
この歌の間に寺の廊下から大量の紙風船が流れ出てきて、禿は無邪気に風船と戯れる。
庵主も出てきて、禿を寺に誘導する。大量の紙風船の中を、禿は縁切寺の中に消える。

暦売りは紙風船のいくつかをペシャンと潰して持ち帰ろうとしている。ここで流れるのが夜いらんかいね
いつのまにか紙風船は舞台からなくなり、鐘の音が響く。
ここで画家(厨子王)登場。潰した紙風船を碗に見立てて、
安寿との別れの場面までは思い出している。しかし、なぜ姉と別れねばならないのか、別れてから何をすればいいのか…途方に暮れている。ここで暦売りが厨子王の背後から萱草と、厨子王の別名を囁きかける。そして「都へ逃げよ、疾う逃げよ」と繰り返し囁きかける。暦売りは安寿と厨子王の離別のときを、安寿自身のように語りかける。
厨子王も、徐々に思い出し始める。己が姉を迎えに帰ることができなかった後悔を思い出しかける。
暦売りは、そこまで見届けてから「見殺しにせよ、骨肉を」と叫び、厨子王を突き飛ばす。この叫びは安寿の心中そのものなのではなかろうか。

ここから場面は急激に変わる。

姥竹が旅装束を持ち出し、厨子王に着せてゆく。その後ろで、禿が寺に火を放つ。
ここんとこ、ものすごく重要な場面、というか、見方の分かれる場面。
禿(安寿)の寺に対する思いはどこにあったのか?
紙風船につられて踏み込んでしまった「寺」の役割の否定か、あるいは、「寺」の役割を肯定したうえで厨子王を送り出した後、誰にも後を追わせないための細工か。
姥竹と禿(安寿)が扉を開けて支える中、厨子王が炎上する寺に踏み込んでゆく。
厨子王が扉の中に消えたのち、寺は轟音とともに崩れさる。(ここ、豪快)
安寿が下手に身を投げるようにして消える。続いて姥竹が上手に同様に消える。それぞれの消えたあとには藁靴が片方づつ残されている。(山椒大夫では姥竹、安寿とも入水して果てている)

すべてが終わった後、暦売りが消火器を抱えて飛び出してくる。そしてがっくりと膝を折る。
暦売りは過去をリセットするツール(暦)を売って商売しているのだから、同様な仕掛けである縁切寺の火事を止めようとしたのであろう。しかし、間に合わなかったわけである。
しょんぼりとした様子で藁靴を集め、一足に揃えて舞台に置いて、暦売りも去る。

この幕は、誰もが持っているであろう「疎ましき過去をリセットしたい」という願望、それを見掛け上実現するツールを紹介し、その一つが崩壊する様を描いている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月15日 (月)

夜会vol.15(二)

ハードウェアについて書き、役者さん(ファームウェア)について書いたら…ストーリー(ソフトウェア)についても書かないと収拾がつかんな(^^ゞ。

いや夜会については、数多の夜会アン(-an;精通者)がいらっしゃって深い考察をされているわけで…。
まぁ自分に収拾をつけておきたいなっ…と。以下は私の恣意的解釈なんで、間違っても根拠を示せとはお考えにならないようm(__)m
(根拠といっても、この舞台を見ていない人に伝えるのは難しいからなぁ…将来DVDを出してくれれば「あれ見て」と言えば済む話なんだけど、現時点ではパンフレットしかないものねぇ)

作劇としては、忠実に起承転結の作法を守ったものなんだな。第一幕が「起」、第二幕に「承」「転」「結」が詰まってる。だから、全体をとおした主題、起承転結の各場面についての解釈なり感想なりをメモ的に書いてみよう。

その前に…思うんだけど、夜会はいろんなところにトラップが仕掛けられていて、いろんな解釈が成り立つようになっている…だから、夜会アンが、いろんな解釈を公表してるんだな。
で、その解釈はそれぞれの人の生きてきた道程を背景に持ってるから、読んでて面白いのだな。
<私の文は面白くないだろうな(^^ゞ…と断言しておく>

【主題(改めて 極めて恣意的解釈)】
人(個人)は、人類の歴史から無関係でいられるわけではない。過去に存在した人達の足跡の上に立っている。
人が(社会的な意味で)人であるのは、過去の人々の営為の蓄積の上に立っていることの認識が必要。
ただし、この認識において、過去を全肯定する必要はない…というより、否定すべき過去も含め、過去を変えることはできない。
過去を変えることはできなくても、未来を求めることはできる。未来を求めるのに、過去を切り捨てることが必要とはいえない。切り捨てることが次の悲劇の素になる。
切り捨てた過去があるからといって、それにより永遠に断罪され続けることはない。
自分が人間であること、他人も人間であること…その当然のことを理解できれば、共に手を携えることができれば、未来は開ける。
内容総体としては「泥海の中から」を思い出させる。
みゆきさんの主題は、パンフレットのまえがきにある安寿と厨子王のその後より、あとがきにある人の一生というものはリセットなど効かぬものというところに重点が置かれている。

ところで、パンフレットのまえがきに、この物語は安寿と厨子王のその後…とある。
森鴎外の山椒大夫でもさらりと流されているが、この弟の視線はかなり重たいものがある。
・弟からの視点
-------------------------------------------------------------------
女は早くおとなびて、その上物に憑(つ)かれたように、聡(さと)く賢(さか)しくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
-------森鴎外作 山椒大夫 より--------------------------------------

姉は弟を送り出し、自らは入水して果てた。
その前に交わした約束は「これは大事なお守りだが、こんど逢うまでお前に預けます。」だった。
これは今生の再会を約束するものではなかったのか?
この約束を信じて別れた弟にとって、姉の入水はいかなる意味を持ちうるや。別れたということが、姉を見殺しにしたという後悔につながるのではないか?姉が入水した場所に尼寺を建てた…その意味は、単に故人を弔うことのみであろうか…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月12日 (金)

山椒大夫(森鴎外 著) 再読

再読といっても、前に読んだのは一体いつだったろうか?というくらい読んでなかったのだが…。
漱石の方は高校の授業で採りあげられて暫くの間「K」と呼ばれていたためもあり、口語体が馴染み易く結構読んでいたりするんだけど、鴎外は阿部一族とか高瀬舟とか…なんとなくハードルが高かった。「舞姫」より「こころ」だったわけだ。

まぁ、今回は中島みゆきさんの夜会vol.15の底本ということで、そちらの予習として読み直したわけだ。
再読してみて、鴎外という人は近世から近代への移行期のエリートだったんだなぁと改めて思う。
やはり、近代日本のエリートとして、近代以前の因習を払拭しようという意図を持って書いてるような、そんな感じがする。
いや、漱石も近代日本のエリートということは同じなんだけど、鴎外の方がそういう意図が直截だ(漱石は少々ひねくれている)。

で、読み返して…ぞっとした。
ひょっとして日本の社会は明治から進歩してないんじゃなかろうか、鴎外が払拭すべきとした因習は未だ私たちが生きているこの社会に厳然として存在してるんじゃなかろうか…と。

---------------山椒大夫(森鴎外 著)より引用 開始----------------
 子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
---------------引用 終了------------------------------------------
こう、一度でも恩を着ると(借りを作ると)、どこまでもそこに付け込んでくる輩は今でもいるわけだ。
そして、それに真っ向から切り返せない、「恩義」というものを無制限に重く背負ってしまう人も未だいるわけだ。
人の行為への対価は有限という概念が存在しない頃なら「恩義を無制限に背負わせる」ことも成立しただろう。
それによって、奴隷労働が容認されてきたわけで…。
しかし、現代でもリフォーム詐欺のとっかかりは小さな恩を着せる(話し相手になってやるとか)ことから始まるとかいう話をどっかで聞いた。DVなんかは「恩義を無制限に背負わせる」典型なんじゃないか。
鴎外はそれを受け入れてしまう心の在り様に警鐘を鳴らしているわけだが(この小説は大正4年発表だぞ)。

鴎外がより直截的に近代を受け入れよと書いているのが、以下のところ。
---------------山椒大夫(森鴎外 著)より引用 開始----------------
国守は最初の政(まつりごと)として、丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠(たくみ)の業(わざ)も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。
---------------引用 終了------------------------------------------
国守とは成人した厨子王のことだが、それは措いといて。
ここで引用した文は、もう資本主義の入門だよね。あえて、小説の中にこういう文章を盛り込むところが鴎外の問題意識なのかな…と。当時そういう文章を書きたいと思わせるものがあったんだろうね。
でも、現代でどうか?私にはどうしても派遣労働の在り様や、収益減少の調整弁に首切りを要求する企業の在り様が思い浮かんでしまうのだ。
資本主義も鴎外の時代から洗練されて「ケインズ理論」なんてものも成立しているにも関わらずだ。

なんと、人間社会の進歩が遅いことか…。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月11日 (木)

夜会vol.15(一)

実は、一か月分の生活費を投入してこんな催しに行ってた。
Photo_5
                     ↑
                  本日の食糧(^^ゞ


前の記事、ここの数少ない常連さん(なんせ一桁)にはワケワカメなものだったと思うけど、
ここは、本来中島みゆきさんのファンが書いてるブログなのだ(^^ゞ
間違っても、誰かを啓蒙しようとか、蘊蓄を垂れようとかいうブログではない<あえて表明する。

 
すぁて、本題…

・ハードウェア
劇場も一階と二階では大きく違うなぁ…と、初心者の弁。
先日の傾斜にびびってたから、恐る恐る入ってみたら…あら?ずいぶん平坦だな(?_?)
それに、舞台が予想外に近いなぁ。P列だからもっと遠いかと思ってたのに…ほこほこ(^.^)。
音も全然違う。今日の席だと、舞台で出ている音が、(場面によっては)直に聞こえた。
紙風船を潰したときの音がちゃんと舞台から聞こえたのには吃驚…あれをマイクで拾って、ミキシングして、スピーカーから出してるとしたら、凄いなぁ。
うん、この劇場ではスピーカーを使う音楽は二階席じゃまずいな。生オケだったら面白いかもしれないけど。
やっぱ、装置は凝ってるわ。2階からだと二幕最終場の舞台、緋毛氈を敷き詰めているのがわかったんだけど、一階最前列じゃあれは見えない。逆に第一幕のラストでみゆきさんが抱えてるのが消火器だということは、二階からじゃよくわからなかった。二階からだと張りぼてだった縁切寺(あれ八角堂だよな?)も、一階からだと立体感のある描き方に見える。一番違うのは、やっぱ照明、見下ろし目線だと光源が気になって見えなかった背景が細かいなぁ…と。
それと、どうしても昨年のツァー会場と比較してしまうんだけど、ここ建物の空間に遊びが少ないね。ツァーのときは始まったら最後まで一気、途中退場可、トイレ休憩ご自由に…だったから良かったけど、今回は幕間があるからねぇ。設備的に苦しい。幕間中トイレに長蛇の列、下手すれば幕間がそれだけで終わっちゃう。Goodsの販売もあれじゃ辛いだろうなぁ。
それに、閉幕してから会場内で余韻を楽しむ雰囲気じゃないというのも…まぁ、場所が場所だから、そういう贅沢を楽しみたければ近所の店に行け…ということなんだろうけど、あの音楽を聴いた後でいきなりジャンルの違うBGMは似つかわしくない。

・役者さん
みゆきさんは措いといて
香坂千晶さん:夜会だとコミカルな役が多いのかな。今回はそのコミカルさに磨きがかかったような…
土居美佐子さん:クレジットにactorとして出るのは今回からかな?禿の演技で紙風船を軽く投げてから、体を回転させるところ、風船が振袖の上に乗ったままに見えた。振袖が水平になる速さで体を回しながら、その上にある紙風船を横へ飛ばさないというのが凄い。
…でも、このお二人、今回の演技では衣装の関係もあってわかりにくいんだよなぁ。いや、二人同時に出てくるとわかるんだけど(当たり前だ)。
コビヤマ洋一さん:難しいぃ。00時発のDVDでも思ったんだけど、この人のキャラクターに舞台全体が引っ張られたいるような。
 

 

じぇんじぇん関係ないことだけど、ファンクラブのチケットとe+のチケットで印刷が違う…発売元毎に印刷変えてるみたい。なんでだろ?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年12月 8日 (月)

とりあえずメモ

あー 席が悪かったのかなぁ、ヴォーカルが低音系の楽器に負けて聞き取りにくかった。
それでも歌詞が気になったのは

・暦売りの歌
・私の罪は水の底
・愚かな禿
・幽霊交差点
・天鏡
・有機体は過去を喰らふ
そして、今回のキーになっている
・百九番目の除夜の鐘
・らいしょらいしょ

どれがCDに入るのかな…
…ならなかったりして
…「記憶」や「フロンティア」の例があるからなぁ。両方とも名曲だと思うんだけど、なぜかCDには入ってない。

それにしても、劇場てのはすごいもんだなぁ。
2階席と一括りに言っても、最前列と最後列で高度差は5mくらいあったんじゃないか?
おかげで舞台の仕掛けは良く見えたけど、下から照らす照明の光源が客席から見えるつぅのはいかがなものか…と。いやオーケストラピットの一部まで見えたもんで、最終場で3人が上手から走りこんでくるのが…。
あと、やっぱり舞台全体を使って表現するような演出だと、この広さの2階席は辛いなぁ。出演者の表情の演技が見えない…双眼鏡の倍率が中途半端だ<持ち主が悪い ともいう>最大でも3倍、できれば2倍位が限度。

有名掲示板では今回のセットが手抜きという話が出ていたけど、そんな風には見えなかった。
「手抜き」と評されていた水族館や船のセットは、敢えてあの表現にしたんだと思う。
「この世」ではない場所を表現する上で、リアリティを意図的に外したような感じがした。
小道具はここまで凝るかというくらいだったし…第一場での暦には「縁切寺」の文字がしっかりと印刷されていた。鈴も本物っぽかった。

でも、これが森鴎外へのアンチテーゼというのはどうかなぁ?
こういう解釈ってのも割とポピュラーな気がするんだ…少なくとも私には違和感がなかった(「おまえはポピュラーな考え方しないだろ」…そうかもしれない(^^; )。
生き方への解釈としては、前回の流れに乗ってるね。というより、この人のこれまで作ってきた歌の流れからぶれてないようなに感じる。

とりあえずメモっとく。

明日なき我等
命のリレー

| | コメント (0) | トラックバック (1)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »