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2008年12月12日 (金)

山椒大夫(森鴎外 著) 再読

再読といっても、前に読んだのは一体いつだったろうか?というくらい読んでなかったのだが…。
漱石の方は高校の授業で採りあげられて暫くの間「K」と呼ばれていたためもあり、口語体が馴染み易く結構読んでいたりするんだけど、鴎外は阿部一族とか高瀬舟とか…なんとなくハードルが高かった。「舞姫」より「こころ」だったわけだ。

まぁ、今回は中島みゆきさんの夜会vol.15の底本ということで、そちらの予習として読み直したわけだ。
再読してみて、鴎外という人は近世から近代への移行期のエリートだったんだなぁと改めて思う。
やはり、近代日本のエリートとして、近代以前の因習を払拭しようという意図を持って書いてるような、そんな感じがする。
いや、漱石も近代日本のエリートということは同じなんだけど、鴎外の方がそういう意図が直截だ(漱石は少々ひねくれている)。

で、読み返して…ぞっとした。
ひょっとして日本の社会は明治から進歩してないんじゃなかろうか、鴎外が払拭すべきとした因習は未だ私たちが生きているこの社会に厳然として存在してるんじゃなかろうか…と。

---------------山椒大夫(森鴎外 著)より引用 開始----------------
 子供らの母は最初に宿を借ることを許してから、主人の大夫の言うことを聴かなくてはならぬような勢いになった。掟を破ってまで宿を貸してくれたのを、ありがたくは思っても、何事によらず言うがままになるほど、大夫を信じてはいない。こういう勢いになったのは、大夫の詞に人を押しつける強みがあって、母親はそれに抗(あらが)うことが出来ぬからである。その抗うことの出来ぬのは、どこか恐ろしいところがあるからである。しかし母親は自分が大夫を恐れているとは思っていない。自分の心がはっきりわかっていない。
---------------引用 終了------------------------------------------
こう、一度でも恩を着ると(借りを作ると)、どこまでもそこに付け込んでくる輩は今でもいるわけだ。
そして、それに真っ向から切り返せない、「恩義」というものを無制限に重く背負ってしまう人も未だいるわけだ。
人の行為への対価は有限という概念が存在しない頃なら「恩義を無制限に背負わせる」ことも成立しただろう。
それによって、奴隷労働が容認されてきたわけで…。
しかし、現代でもリフォーム詐欺のとっかかりは小さな恩を着せる(話し相手になってやるとか)ことから始まるとかいう話をどっかで聞いた。DVなんかは「恩義を無制限に背負わせる」典型なんじゃないか。
鴎外はそれを受け入れてしまう心の在り様に警鐘を鳴らしているわけだが(この小説は大正4年発表だぞ)。

鴎外がより直截的に近代を受け入れよと書いているのが、以下のところ。
---------------山椒大夫(森鴎外 著)より引用 開始----------------
国守は最初の政(まつりごと)として、丹後一国で人の売り買いを禁じた。そこで山椒大夫もことごとく奴婢を解放して、給料を払うことにした。大夫が家では一時それを大きい損失のように思ったが、このときから農作も工匠(たくみ)の業(わざ)も前に増して盛んになって、一族はいよいよ富み栄えた。
---------------引用 終了------------------------------------------
国守とは成人した厨子王のことだが、それは措いといて。
ここで引用した文は、もう資本主義の入門だよね。あえて、小説の中にこういう文章を盛り込むところが鴎外の問題意識なのかな…と。当時そういう文章を書きたいと思わせるものがあったんだろうね。
でも、現代でどうか?私にはどうしても派遣労働の在り様や、収益減少の調整弁に首切りを要求する企業の在り様が思い浮かんでしまうのだ。
資本主義も鴎外の時代から洗練されて「ケインズ理論」なんてものも成立しているにも関わらずだ。

なんと、人間社会の進歩が遅いことか…。

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