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2008年12月15日 (月)

夜会vol.15(二)

ハードウェアについて書き、役者さん(ファームウェア)について書いたら…ストーリー(ソフトウェア)についても書かないと収拾がつかんな(^^ゞ。

いや夜会については、数多の夜会アン(-an;精通者)がいらっしゃって深い考察をされているわけで…。
まぁ自分に収拾をつけておきたいなっ…と。以下は私の恣意的解釈なんで、間違っても根拠を示せとはお考えにならないようm(__)m
(根拠といっても、この舞台を見ていない人に伝えるのは難しいからなぁ…将来DVDを出してくれれば「あれ見て」と言えば済む話なんだけど、現時点ではパンフレットしかないものねぇ)

作劇としては、忠実に起承転結の作法を守ったものなんだな。第一幕が「起」、第二幕に「承」「転」「結」が詰まってる。だから、全体をとおした主題、起承転結の各場面についての解釈なり感想なりをメモ的に書いてみよう。

その前に…思うんだけど、夜会はいろんなところにトラップが仕掛けられていて、いろんな解釈が成り立つようになっている…だから、夜会アンが、いろんな解釈を公表してるんだな。
で、その解釈はそれぞれの人の生きてきた道程を背景に持ってるから、読んでて面白いのだな。
<私の文は面白くないだろうな(^^ゞ…と断言しておく>

【主題(改めて 極めて恣意的解釈)】
人(個人)は、人類の歴史から無関係でいられるわけではない。過去に存在した人達の足跡の上に立っている。
人が(社会的な意味で)人であるのは、過去の人々の営為の蓄積の上に立っていることの認識が必要。
ただし、この認識において、過去を全肯定する必要はない…というより、否定すべき過去も含め、過去を変えることはできない。
過去を変えることはできなくても、未来を求めることはできる。未来を求めるのに、過去を切り捨てることが必要とはいえない。切り捨てることが次の悲劇の素になる。
切り捨てた過去があるからといって、それにより永遠に断罪され続けることはない。
自分が人間であること、他人も人間であること…その当然のことを理解できれば、共に手を携えることができれば、未来は開ける。
内容総体としては「泥海の中から」を思い出させる。
みゆきさんの主題は、パンフレットのまえがきにある安寿と厨子王のその後より、あとがきにある人の一生というものはリセットなど効かぬものというところに重点が置かれている。

ところで、パンフレットのまえがきに、この物語は安寿と厨子王のその後…とある。
森鴎外の山椒大夫でもさらりと流されているが、この弟の視線はかなり重たいものがある。
・弟からの視点
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女は早くおとなびて、その上物に憑(つ)かれたように、聡(さと)く賢(さか)しくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
-------森鴎外作 山椒大夫 より--------------------------------------

姉は弟を送り出し、自らは入水して果てた。
その前に交わした約束は「これは大事なお守りだが、こんど逢うまでお前に預けます。」だった。
これは今生の再会を約束するものではなかったのか?
この約束を信じて別れた弟にとって、姉の入水はいかなる意味を持ちうるや。別れたということが、姉を見殺しにしたという後悔につながるのではないか?姉が入水した場所に尼寺を建てた…その意味は、単に故人を弔うことのみであろうか…。

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