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2009年6月30日 (火)

追加

なんか書き足りないなぁと、思ってたんですが…
結局、脳死臓器移植の私にとって最大の問題は、命の重さに「役に立つ・立たない」という価値判断を絡めていることに対する嫌悪感なのかもしれません。

ちょっと考えてみます。
人の命の重さに「普遍的な」役に立つ・立たないという価値観を絡めることは適当なのでしょうか?
…という以前に「普遍的な」役に立つという事象はどれだけあるのでしょうか?
例えば、アラビア数字などは普遍的に人類の役に立つと言ってよいでしょう。

しかし、人の命はそう簡単に役に立つ・立たないと区分けできるのでしょうか?
私は、そんなもんじゃないと思っています。
脳に障害を持って生れた子供は誰の役にも立たないのでしょうか?
たとえ一生寝たきりであっても、その子を支えに生きている親御さんがいても不思議じゃないでしょう?
親御さんの心の支えになっているという視点からは、その子は立派に役に立っているのです!

(乱暴な言い方になりますが)脳死臓器移植は、役に立たなくなった「死体」から臓器を摘出して、別の「生体」を役に立つ状態にすることではないでしょうか。
ここで私が言いたいのは「死体」→「生体」の物質的な移動よりも、むしろ、「役に立たないものは見捨てる」=「役に立つものは助ける」という考え方がはたして正しいのか?ということです。

そこで問題になるのは、「役に立つ・立たない」の切り分けが普遍的に正しいものとして成立しうるかという点です。
時間と目的を短く絞って個別の事象に限定して考える場合は、役に立つ・立たないという判断はあり得ます。
しかし、時が過ぎ目的が変われば、それまでの価値観が逆転することもあり得ます。
最近の事象(流行)でいえば「エコ」がそれにあたるでしょう。
ちょっと前までは、エコなんてものは経済発展の阻害要因として排除されていました。
それが、今では経済発展の鍵として信奉されるありさまです(その中で「エコ」の意味するところも変容しています)。

まして、事柄は人の命です。
「汝殺すなかれ」「殺生戒」…人倫の基本ではありませんか?
それを、たまたま今という時点に限っての「役に立つ・立たない」という価値判断で左右してよいものでしょうか…。

ここで思い浮かべてしまうのが「靖国」です。
あの目的は、国のために戦死した人々を祀るものです。戦死とは…相手を殺そうとして返り討ちにあったということです。敢えてきつい言い方をしますが、国が殺人を強要したことを正当化する存在と言えます。

ここに、今回の臓器移植法案との類似性を認めます。
今回の法案は「死」の判断を本人(や、その家族)の手から取り上げ、未だ浸透しているとは言えない「法」の定義に従うことを強要していることになりかねません。
…自分が経験した「死」では、温もりが徐々に失われていき、そのことにより死を納得する時間がありました。
しかし、「脳死=死」と定義された場合。必ずしも同じような訳にはいきません。
場合によっては、まだ脈もあり、温もりもある状態で「死」を受け入れなくてはならないのです。
その定義が一般的に受け入れられて、初めて「法」で定義できるんじゃないでしょうかね。

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コメント

おはようございます。
前のエントリーにつづき納得しながら読みました。ほんとに納得しているのですが、とみんぐさんなので、ちょっとだけ重箱突きをさせてください。

「役」に立つ、立たない、の役に「普遍性」はあるのだろうか?、と考えてしまいました。
そも、命(生)というのは、役とは全く別の次元で存在しているのではないかと、思っています。

>脳に障害を持って生れた子供は誰の役にも立たないのでしょうか?
たとえ一生寝たきりであっても、その子を支えに生きている親御さんがいても不思議じゃないでしょう?
親御さんの心の支えになっているという視点からは、その子は立派に役に立っているのです!

うーん、役にたっている、のかなぁ?
「役」ではなく、生きている、生かされている、って思いたいです。
障害者でいえば、一般(健常者的)でいうとこの「役」ってのを立たせたくない、障害者も健常者もメッセージを持っていて、お互いに支え合っている、それが生きているということ、とワタシは考えたい。

ただ単にワタシが、「役立つ」「価値がある」という語感が嫌いなだけかもしれないんですけど……爆!!

投稿: dr.stonefly | 2009年7月 1日 (水) 08時42分

こんばんは

>命(生)というのは、役とは全く別の次元で存在しているのではないかと、思っています。

おっしゃる通りです。まったく異論はありません。
ただ、昨今(に限らず)なにかにつけ「役に立つ・立たない」ということに判断基準を置く向きが多すぎます。
前記事を書くにあたってはリンクした以外のところも随分読んだつもりです。
そこにあるのは「お役に立ちたい」「役に立つなら」をベースにした論の氾濫でした。
そこにひっかかりを感じているんです。

遅レスを書きながら、みなさんのところを回っていたら色んな考え方が出ていますよね。
dr.stoneflyさんのところのコメント欄で、独特の韜晦を含んで「故意に」矛盾した論を展開されている方がいらっしゃいますが、私の発想もあの人に似ているのかもしれません。そして、それはdr.stoneflyさんとも共通しているのかも(皮膚感覚って、重要なことだと思うんですよ。人は霞だけ食って生きられるわけじゃありませんからね)。

投稿: とみんぐ | 2009年7月 2日 (木) 19時43分

なんとなーく、論点に混乱が見られる、ような気がします。自覚的?

臓器移植に関する法律が脳死を死として扱うことを決めても、一般法上の死は三兆候説によって判定されます。脳死が死として扱われるのは、あくまで臓器移植という『特別な場合』に限られるということですね。
この場合、脳死を死として扱うか否か、という問題は、自らの臓器を他人に対して『役立てる』ことを選択した誰かについて関係してくることであり、誰も彼も一律に、と言う問題ではありません。
ですから、心臓の停止した『死体』から臓器を切り取るのも、心臓は動いている『一応は死体』から臓器を切り取るのも、臓器の再利用という行為それ自体はなんら違わない以上、その場合の観点が臓器移植という目的により適った『より新鮮な臓器』という、いわば利用価値的なものに向けられることはある種当然であって、そこを批判するのは臓器を移植するなということにも等しいのではありませんか?

そもそもこの場合『役に立つか立たないか』という観点でとらえられているのはあくまで物体としての臓器であって、『命』ではありませんよね。『人工的手段に依ってしか生きていけない』からこそ(これはつまりもはや人間としての尊厳のない状態での、ただ生かされているだけの生であって、そのような生がはたして望ましいのかという問題をはらみますが、ここでは言及しないことにします)死体だと判断されるのであって、『死体として扱ったほうがより役に立つ』から死体と判断するのではありませんよね。
これらを混同されては非建設的な感情論の応酬へと転げ落ちてしまいかねないため、とても困ります。

生命の価値について多大な関心がおありであろうことは推察できますが、それと臓器移植とは、とみんぐさん自身がそう語るように、また別の問題ですよね。

投稿: sutehun | 2009年7月 5日 (日) 09時38分

>自覚的

はい、sutehunさんほどではありませんが、おっしゃるような指摘があろうことについては、かなり自覚的ではありますね。

さりながら、一点だけ…
>『死体として扱ったほうがより役に立つ』から死体と判断するのではありませんよね。

この点において、私は懐疑的なのです。

投稿: とみんぐ | 2009年7月 6日 (月) 19時25分

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