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2009年11月

2009年11月15日 (日)

紫綬褒章

中島みゆきさんが受章したつうんで、話題になった紫綬褒章…
法令DB参照してみると…古い(^^ゞ

 ◆紫綬褒章◆
右学術芸術上ノ発明改良創作ニ関シ事績著明ナル者ニ賜フモノトス

明治十四年太政官布告第六十三号(褒章条例)
(明治十四年十二月七日太政官布告第六十三号)
最終改正年月日:平成一四年八月一二日政令第二七八号

うわわ、根拠条項が太政官布告だって…
漢字カナ混じり文だし。

いやぁ、この件では周りが騒ぎすぎじゃないか…と、ふと思ったわけです。
一応、受章についてのコメントも出てるわけですが、本心かなぁ…と、疑ってしまうのです。
なにしろ…

婉曲表現と反語表現とで、人知れずオーディエンスいびりをすることを楽しみとする
(新潮文庫 愛が好きですⅡ P192)

と、自称している人の言うことですからねぇ(笑。
ほんとかしら?と眉に唾つけて読んだ方が良いような気がしてならない。
案外、醒めてるんじゃないでしょうか。世間様の評価の一つとして、「くれるんなら貰っちゃる」という方が、みゆきさんのイメージにはあってる気が…。
だから良い歌が書けるんだろうな…と。

どちらかと言うと、授章対象の推薦を通した方がみゆきさんの歌聴いてないんじゃないか?

4.2.3」なんてのは絶対聴いてねぇな…と。

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議論のスタイル(前記事の続き…みたいなもの)

いつのまにやら追いつけなくなってる(^^;

で、こっちに書く。
(毎度のことながら、大したことは書かない!)

議論のスタイルにおいて、「いやだなぁ…」と感じることがある。

私がキライなパターンについて、なんでかなぁ?と考えていたりする。
おそらく、議論という行為に対する目的意識の違いだろうけど…ね。

リアルでも使われるフレーズなんだけど、ネット上で使われると「それはないだろう」と思うのが
「物を知らないお前は黙れ」
というやつ。

このフレーズ…リアルでは「あり」なんですよ。本来達成するべき目的があって、そこに到達する手段を模索しているときとか…ね。特にリアルでは「時間」という要素が行動において重要なファクターであることは否めないんだから「見切り発車」する必要があれば、議論を遮断するためにこういうフレーズは用いられる訳。念のために繰り返すけどこのフレーズは「議論を遮断する」ものだよ←ここ重要
だから、ネットで発せられるこの種のフレーズの意図はなんなのか?としばしば考え込むんだよね。

特に、他人さまのコメント欄で、他のコメンテイターに殴りかかって浮き上がった人が言うときはねぇ。
「この人、結局何がしたかったんだ?」と疑われても仕方ないと思うんだよ。
いやね、感情としてそう言いたくなるという可能性自体は否定しないんだよ。
しかし…それなら「議論」じゃないじゃないか…と。
単に感情をぶつけているだけで、理性に依拠する「議論」じゃないだろう…と、ね。

前の記事書いて、コメント欄が伸びていく様子をみながら、上述のようなことを考えていたら
他のブログで似たようなテーマが扱われていたり…。

「自分の気持ちを保つために人をバカにしなくてはならない」
そういう感情が生起する事は理解できますが、実行することに共感はできません。
ましてや、“ネット上でそれをしなくてはいけない”理由も、私には良く分かりません。

http://naked-kings.blog.so-net.ne.jp/2009-08-31#more

まぁ、このあたりはkuronekoさんとこでは、別のエントリーで長い「議論」になってましたね。
私としては、そういう感情の垂れ流しは「自分のところでやってくれ」というしかないんですけどね。
少なくとも、他者に対する礼儀を云々する問題意識があるなら、誰かに負の感情をぶつけるのは拙いことだと気づくはずだ…と思いたいんです。

まぁね、ネットでこうやって記事書いたり、コメントしたりするってことは一般人より自己顕示欲が強いんだというのは分かります。分かりますけど、貴方の言葉を万人が傾聴する義務はないということくらい弁えてほしいのですよ。
だから、(今の私のように)感情が抑えられなくなったら、自分のところで書いて、どこにもTBなんざ飛ばさず、ひっそりとしていたらどうか?と勧めたくなっちゃうわけです。

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2009年11月 3日 (火)

長いと言われたんで

kuronekoさんとこで「差別」という重いテーマを取り上げてらっしゃる。
で、コメントしようとしたら、長いと言われたんで、こっちに書く。

えっと、これは「みんななかよく」さんの「もう一つ 差別の話 いきまーす」へのコメントです。

本当は前の記事へのコメントのつもりだったんだけど、あそこのコメント欄は別扱いということらしいんで…。
前の記事と、この記事の本文、およびコメント欄を拝見するに、まぁどこか別のところでの議論をブログ主さまが発展させようとしていると考えます。それを前提として、しかし、あくまでここに書かれたことに対してのみ、ちょっと思うところを開陳することをお許しください。

まず、「自らの内面における差別意識の認識」と「他者の差別意識への批判」、この二点は峻別されるべきものではないかと思います。
自らの差別意識はそれを認識した時、自ら克服すべき対象として自覚されます。この点において、kuronekoさんのおっしゃる「啓発」ということも重要なことではあります。そして、克服するという努力は「理性」の支配下による営為となります。

しかし、他者の差別意識への批判は往々にして、自らの差別意識(あるいは負の意識)を覆い隠すものとして機能することがあるかにも思えるのです。それは「啓発」の域を大幅に逸脱したものとならざるをえません。これは「感情」の垂れ流しにすぎません。厄介なことに、このような「感情の垂れ流し」を行う人たちが、その行為を「理性的」と自認している場合が往々にしてあるわけです。(「感情の垂れ流し」であることを自覚したなら、前出の通り他者への批判から、自己の裡なるものへの批判に向かわざるを得ないところだと愚考します)
また、「感情の垂れ流し」は、批判する相手の人格を全否定することにつながり易いという経験上の知見もございます。
ここに出てきた事例でいえば、ごんさんに投げかけられた「頭蓋骨にウンコの詰まった」という言葉は「感情の垂れ流し」による人格の全否定の最たるものと考えております。(売り言葉に買い言葉…というレベルじゃないと)

で、まぁ、差別ということは自らの根拠を揺るがすような異質なものに直面した時に生じる自己防衛的な面もあろうかと思います。思いますが、それが社会の慣習になり制度となることにやりきれない思いを感じるところです。
で、まぁ「やりきれない思い」を持つことで満足できる人もいるでしょうが、それでは解決にはならないということは指摘されねばならないでしょうね。(ごんさんのコメントの源流はここにあると思うんですが)

kuronekoさんも指摘されておりますが、法制度的には平等となった…慣習としては残っている、その点をどう捉えるか、そのためにはやはり「理性」の枷を己にはめていくしかないのかなぁとも思うのですがねぇ。

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