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2009年11月 3日 (火)

長いと言われたんで

kuronekoさんとこで「差別」という重いテーマを取り上げてらっしゃる。
で、コメントしようとしたら、長いと言われたんで、こっちに書く。

えっと、これは「みんななかよく」さんの「もう一つ 差別の話 いきまーす」へのコメントです。

本当は前の記事へのコメントのつもりだったんだけど、あそこのコメント欄は別扱いということらしいんで…。
前の記事と、この記事の本文、およびコメント欄を拝見するに、まぁどこか別のところでの議論をブログ主さまが発展させようとしていると考えます。それを前提として、しかし、あくまでここに書かれたことに対してのみ、ちょっと思うところを開陳することをお許しください。

まず、「自らの内面における差別意識の認識」と「他者の差別意識への批判」、この二点は峻別されるべきものではないかと思います。
自らの差別意識はそれを認識した時、自ら克服すべき対象として自覚されます。この点において、kuronekoさんのおっしゃる「啓発」ということも重要なことではあります。そして、克服するという努力は「理性」の支配下による営為となります。

しかし、他者の差別意識への批判は往々にして、自らの差別意識(あるいは負の意識)を覆い隠すものとして機能することがあるかにも思えるのです。それは「啓発」の域を大幅に逸脱したものとならざるをえません。これは「感情」の垂れ流しにすぎません。厄介なことに、このような「感情の垂れ流し」を行う人たちが、その行為を「理性的」と自認している場合が往々にしてあるわけです。(「感情の垂れ流し」であることを自覚したなら、前出の通り他者への批判から、自己の裡なるものへの批判に向かわざるを得ないところだと愚考します)
また、「感情の垂れ流し」は、批判する相手の人格を全否定することにつながり易いという経験上の知見もございます。
ここに出てきた事例でいえば、ごんさんに投げかけられた「頭蓋骨にウンコの詰まった」という言葉は「感情の垂れ流し」による人格の全否定の最たるものと考えております。(売り言葉に買い言葉…というレベルじゃないと)

で、まぁ、差別ということは自らの根拠を揺るがすような異質なものに直面した時に生じる自己防衛的な面もあろうかと思います。思いますが、それが社会の慣習になり制度となることにやりきれない思いを感じるところです。
で、まぁ「やりきれない思い」を持つことで満足できる人もいるでしょうが、それでは解決にはならないということは指摘されねばならないでしょうね。(ごんさんのコメントの源流はここにあると思うんですが)

kuronekoさんも指摘されておりますが、法制度的には平等となった…慣習としては残っている、その点をどう捉えるか、そのためにはやはり「理性」の枷を己にはめていくしかないのかなぁとも思うのですがねぇ。

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