音楽

2012年5月13日 (日)

ひさしぶり

なんか面倒くさくなってきたんで、直打ちです。

○十年ぶりに映画館に行ってきた。

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2010年12月19日 (日)

比べてみた

前回(2007ツァー)と比較してみた。

「一期一会」「昔から雨が降ってくる」「I Love You,答えてくれ」「ボディ・トーク」
「本日、未熟者」「背広の下のロックンロール」

「あなたでなければ」「ララバイSINGER」「宙船」「重き荷を負いて」

「御機嫌如何」

「1人で生まれて来たのだから」

「EAST ASIA」「糸」「誕生」

「蕎麦屋」

「アザミ嬢のララバイ」

「ファイト」

「地上の星」

「ホームにて」

「命の別名」

今回は本当に最新アルバムからの選曲が少ないんだね。
(前回:6曲、今回:4曲)
やはり、何か転換期に来ているのかもしれないと思う。

 

 

 

番外編?
「唇をかみしめて」

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2010年12月 4日 (土)

アフィリなど

最初に断っておくが、コンサートでは大幅なアレンジ入っているからね!
アルバムで聞いた感じと全然違うものもいっぱいあるかんね!

今回はアルバムそのものの紹介なんでジャケット写真もつけてみる。

・聴く
「今日以来」「真夜中の動物園」「夢だもの」「鷹の歌」

「翼をあげて」「愛が私に命ずること」

「二隻の舟」

「サバイバル・ロード」「Nobody Is Right」「顔の無い街の中で」

「時刻表」「悪女」(「傾斜」)

「しあわせ芝居」

「銀の龍の背に乗って」

「時代」


「たかが愛」

紙ジャケット盤も出てるけど、プラケースの方が保管は楽だから^^;

・観る
「二隻の舟」
フルバージョンが聴きたいならこれ。他にもDVD発売されなかったウィンターガーデンから「記憶」なんて名曲も収録されているんで一押し!

その他スクリーンショット(私が覚えていた分)
   

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コンサートに行ってきた(中島みゆきツアー2010)

雑誌ダ・ヴィンチの記事に書かれてるように、

だから、私が見ているのとまったく同じ青空をあなたにも見せるってところが完成地点ではないんです。それは洗脳だもの。青の中には私は私の思い入れがある、あなたにはあなたの思い出がある、その2つが混じったとき、また違った青空が生まれるかもしれない、それを一緒に見ようねってこと。
(発行:メディアファクトリー、雑誌名:ダ・ヴィンチ 2010年11月号 19頁掲載)

みゆきさんの、このスタンスの取り方がいいんだなぁ。
だから、あたしはあたしの見た青空を書いているわけだ。

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2009年12月21日 (月)

謎は深まる?

謎は深まる?

夜会vol.16
ブログ界隈を見ても、昨年ほどは盛り上がっていないようだ。
再演ということもあるのだろう。
しかし、実演を見ると…

「元祖」
開演:20:00、終演:22:20(休憩:20分)
「本家」
開演:20:00、終演:22:30(休憩:20分)
※二幕が10分長くなっている。「ほうやれほ」が長くなったのと、十二天がCD版と同じアレンジになったからかな?

音響がおとなしくなっている(U列ほぼ中央で聴いた感じ)。
とはいっても、D列で聴いたらさすがに…ド迫力。

基本的なストーリーは確かに昨年と同じだけど、切り口がかなり違うように思える。

複数の有名ブログで書かれているとおり、縁切寺(の機能)について長い科白が用意されている。「元祖」では科白なしで表現されていた所だから、演出という点で大きな変更ではある。しかし、これはあくまでも演出技法だと思う。

ストーリー展開では、「十文字」のところに重大な変更がある。
それは、定め書を読み上げるシーンに続いて崩れ落ちるのが誰か?という点だ。
「元祖」のときはみゆきさんが演じている「母」だったのが、「本家」ではコビヤマさんの「厨子王」と香坂さん、土居さん演じる「安寿」である。
ここの変更の意味、もうちょっと考えたい。

このストーリーのクライマックスは2幕の「十文字」~「赦され河わたれ」にある。
したがって、「十文字」で定め書を突き付けられるのは誰かという点は、その後の悔み苦しみ(ほうやれほ)、解放される(赦され河渡れ)のは誰か…ということに関わってくるわけで、ここの部分の変更の意味は大きい。
(で、いろんな夜会アンの皆様のブログを散策…私と違って、歌詞を引用されている方も多いので参考になる)
その答えは「ほうやれほ」の歌詞の変更にあるのかもしれない。
「元祖」のときは、母の立場からの別れた子、夫への愛、別れてしまった後悔が主題であった。
「本家」では、母のそれとともに、安寿のそれが重なっている。
これが表現されているのは「悔まれてならぬ~人でなし我が身 or 赦せず我が身」のフレーズではないかなと…。
つまり、登場人物の皆が皆、愛する者と別れたという罪の意識を共有しているということになる。
だから、「赦され河渡れ」の場面で、安寿、厨子王が眼隠しをしたまま登場し、その眼隠しを脱ぎ捨てて船に乗る…ということになる。
「眼隠し」というのは、「(ふりかえったところでどうしようもない)後悔」のことであり、それを脱ぎ捨てることで新しい未来(来生)へ向けて出発する準備ができる。そして新しい未来へ向けて安寿と厨子王が旅立つときに使う乗り物が、あの船ということだろう。
(「元祖」のときに悪評さくさくだった二幕の抽象的な魚や船、それは人間の生き様の比喩なのだから抽象的で当たり前だったのだ。)

「(同じ場所での)輪廻」と「(並行世界への)転生」
これが「24時着0時発」以来のテーマになっている。
これの結論はどうなるんだろうか?

参考ブログ:転轍される世界

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2009年12月13日 (日)

歳食ってからの道楽は…

夜会vol.16
Photo_3

どうも、嵌まってるなぁ…
2007年にコンサート行ってから、毎年この時期は休みをとらずにはおれない。

で、まぁ、今年も行ったわけだ。
去年は後ろの方で観たのだが、今年は(どういうわけか)大当たりぃ…
FC×2、公演事務局、ACTシアター…全部先行予約抽選が当たってしまった(^^ゞ
内1枚は、なんとD列中央ブロック!
舞台のへりから数メートルしかない!

んで、感想
まず、音
上下のステレオってのを初体験(笑
額縁の部分に埋め込まれた巨大なスピーカーからの音、舞台の前に仕込まれたスピーカーからの音、オーケストラピットから聞こえてくる生音…
3者の混合した音が、まぁ、凄いつうか、なんというか。
いや、実際には、ほとんどスピーカーからの音だとは思うんだけど、そこはそれ、生音も聞こえていたと思いたい(実際、後ろの席では聴き取れなかった音もかなり聞こえたからね)。
紙風船が舞台の前に仕組まれた階段を転がり落ちるときにカサカサと音を立てているのが聞こえたしねぇ。

役者さん
コビヤマさんの印象が、前と変わった。
これは特筆しておきたい。
いやね、去年後ろで観た時と、24時着00時発のDVDでは…なんか動きが大げさだなぁと思ってたんだけどね、今回前の方で観たら凄いわ。
PAとの兼ね合いなんだろうけど、この人の声、よく通るんだな。
スピーカーからの音に全然負けてない。
大きな動きの時は舞台が揺れてるのが見えたし(笑。
でも、それだけじゃない。細かい演技、本当に後ろからじゃ双眼鏡使わないと観えないよって部分まで手を抜いていない。
一番凄かったのは、一幕終盤のホームレスから托鉢僧への変身の場面。
香坂さん演じる庵主にホームレスの服を剥がれて、僧服に着替えさせられる時、動きはほとんどないんだけど、目が…。
ホームレスの衣装の時は放心したような無気力な目、それが僧服に着替えていくうちに徐々に力のこもった目に変わっていき、最後には満身の力を込めた目になる。
この演技は凄かった(繰り返すけど、この目の演技は遠くからだと多分見えてない)。
香坂さん、大変だなぁ…と思ったのは、みゆきさんの「♪柄杓を持って行かないで~」のアドリブへの返し。
いや、あのアドリブ…効きすぎだもの(爆笑。
それも毎回変わるんだから(^^ゞ。
土居さんも去年と変わらず踊りが上手い。見せ場はやはり紙風船の中でクルリと回るところかな(今年は演出を抑えていたらしく、紙風船を大きく上げなかった。これが残念だけど、失敗したら風船がとんでもないところに飛んで行ってしまうから、仕方ないかな)
もちろん、みゆきさんの歌は言うまでもない…から省略(?)

ストーリーについては改めて…

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2008年12月17日 (水)

夜会vol.15(四)

-承前-

前がえらく長くなってしまった(^^ゞ
…ほとんど力尽きた。記憶もだんだん薄れてきた…端折ろう;;
乞う DVD発売。

<登場人物は各場について最初だけパンフレットに書いてある通りに書きました。とはいっても、その場に登場した人物が本当にその登場人物だと言いうるのかは自信ありません(特に、安寿と厨子王)。その他の文中は適当に略します>

【承】水族館
舞台:水の底の水族館
登場人物:暦売り、水族館の飼育員(姥竹)、脱走した花嫁、左官、安寿、厨子王
時間設定:不明(おそらく現代)

ここは「リセットしたはずの過去」の溜まり場。弟を縁切りした安寿がたどり着き、安らけき寿を捨てた花嫁が飛び込んで来、そして愛する家族をうまうまと奪われてしまった母が潜む、そういう「リセットしたはずの過去」の澱みが水族館の魚たち。

非常に抽象化されたビニール風船のような魚たちが吊るされている。
中央の舞台は、やけに古ぼけた感じの壁。その壁に取り付けられた扉をヨッコラショという感じで開いて、暦売りが入ってくる。えらく疲れた感じ。
この時に流れる暦売りの歌、如何にも疲れたぁ…という感じが出ている。一幕目の暦売り登場の場面と、大きく違う。(一幕目の暦売りは、さぁ仕事するぞぉ(^^)/という感じ、ここでの暦売りは仕事が終わらねぇ(;O;)という感じ…で)
暦売りは履いていた藁靴を脱ぎ棄てて、ひとしきり愚痴る。ここで藁靴というところがポイントの一つ、山椒大夫では、安寿が入水した沼のほとりに藁靴が一足残されていたとある。したがって、ここでの暦売りは安寿の姿とも見える。
愚痴を終えたのち、幽霊交差点を歌いながら、魚たちと戯れる。この歌、トーンはまったく異なるが心守歌 に収録されていたあのバスにを思わせる。
音楽がいきなり変わり、飼育員登場。魚たちに餌を与え始める。暦売りにも餌の魚を押し付ける。
飼育員の目には、暦売りも他の魚たちと同じ存在に見えるのだろう。この飼育員は次に出てくる脱走した花嫁にも同じように接する。花嫁は嫌がって逃げるのだが、飼育員はしつこく追う。
そう、ここは誰かがリセットした過去が集うところであり、その過去が記憶の底から浮かんでこないように、飼育員が抑え込んでいるのだ。
ここでは、暦売りも花嫁も、誰かが封印した記憶だ。

しんみりした気分にさせる進行の中に、突然左官が現れる。それも扉からではなく、屋内消火栓の収納箱から…。左官については、古代官位制度の主典(さかん)との掛詞で、出世した厨子王を暗示している。
で、有機体は過去を食らふの歌の中、舞台の壁や階段に何かを塗りつける。この塗りつけた何かも意味が隠されているのだろうが…。
そして、左官は消火栓に戻っていく。この左官の登場と退出の形から、左官は暦売りや花嫁とは異なる存在であることが覗える。彼はリセットされた過去ではないのだ。
左官が塗り仕事をした面に暦売りが、暦をペタペタと張っていく。流れる歌は私の罪は水の底、ここでいう罪とはなんなのか。リセットされるような過去が罪なのか、それとも過去を忘れ去ろうとするのが罪なのか。
そこへ左官 再登場。先程暦売りが張った紙を見て激怒、「タワケェ」と叫ぶ。…飼育員(姥竹)が、名を呼ばれたと勘違いして登場。ここからの左官と飼育員のやり取りで、飼育員が姥竹であるのみならず、安寿の過去を背負っていることが明らかになる。
ここから、なぜか毬が飛び出し、例によってバスケットボールが始まる。このバスケットには左官、飼育員に花嫁まで参加。しかし、暦売りは参加せず、脇から楽しそうに見守っている。まるで母が子供たちの戯れるのを見守るように。
左官、飼育員、花嫁がバスケットに興じながら場面から去る。
飼育員がいなくなったためか、魚たちも舞台から消える。
そして、消火栓の火災報知機が点滅を始める。これは前幕での縁切寺の炎上に呼応するものと思われる。
縁切寺という過去を呼び寄せる仕掛けが無くなったのだから、もう、過去をつなぎとめておく水族館の役割も終わったのだ。寺の炎上に呼応して水族館も燃え落ちる。
暦売りは逃げ出そうと扉に取っ組むが…開かない。扉に体を寄せて崩れ落ちる暦売り。
そして、鐘の音が鳴り響き、場が変わる。

【転】船
舞台:水の底から水面
登場人物:母、姥竹、安寿、厨子王
時間設定:不明(おそらく平安時代)

この場がどこから始まるかについて、私は鐘の音を切りにしたが、異論はあるはずだ(私も少々迷った)。
リセットした過去たちが水族館から解放され、暦売りだけが取り残されている。
そこへ飼育員・花嫁と左官が登場。
定め書きを読み上げ、厨子王(左官)と安寿(飼育員)の過去の交差点、分岐点となった時間が明らかになる。
そして暦売り(母)にそれを突き付ける。ここで始まる十文字の音楽とともに安寿、厨子王と姥竹は消火栓をくぐりぬけて退場。

一人残された暦売り(母)がほうやれほを歌い始める。
-------------------------------------------------------------------
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生(しょう)あるものなれば、
疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。
-------森鴎外作 山椒大夫 より--------------------------------------

歌の中には、子供たちへの思いだけでなく、旅をするきっかけとなった夫への切ない思いも歌われている。過去への後悔・懺悔に満ちたこの歌…切々と歌い上げるこの歌の最後を、「百九番目の除夜の鐘…」の歌声が圧倒する。
後悔ばかりでは前進しないこと、流れている歴史の中で後悔に囚われ、懺悔するのみでは何も解決しないことを示すかのように、百九番目の除夜の鐘の音の中で、母は倒せ伏す。

そして…ゆっくりと起きなおり
「泥から生まれて 泥になる。
泥を食ろうては 生きてゆく。
誰が悪いじゃないけれど
私は ここにいる」
とつぶやく。ここから紅蓮が歌われる。
誰にも見られない真夜中に紅蓮は開花する。この暗示。後悔や懺悔を乗り越えたとき、初めて人の豊かな一面が開花することの暗示のように…。
母が着ていた着物を一枚脱ぐ、純白の修験者のような衣装。つまり、この脱いだ着物は蓮の華の開花前の固いつぼみか。人を抑圧する後悔や懺悔の気持ちか。

そして…赦され河、渡れが激しい調子で流れ出し、天井から船が下りてくる。場面の照明も一段と明るくなる。
水底から浮き上がってきた厨子王、安寿、姥竹(みんな純白の狩衣姿)が、母の手を借り、水面に躍り出る。
三人とも船に乗り込む。屈託のない解放された笑顔で空を見上げる。

場面の照明が落とされる。赦され河、渡れの歌だけは続いている。

【結】今晩屋
舞台:不明
登場人物:今晩屋
時間設定:不明
用語定義:ステージ=いわゆる舞台、舞台=ステージの上に一段高く設えられた演舞台…これ定義しておかないと、この場の演出が説明しにくい。

物語がハッピーエンドで終わる設定なら、前の場でエンディングのはずなんだが…。

赦され河、渡れの歌に被るように夜いらんかいねが始まる。
今晩屋…この言葉がどうにもわからなかった。しかし、暦売りの役割を考えると、人々がリセットしたはずの「過去」を蓄える存在かなぁ…と。リセットなぞ出来ない過去を…リセットしたはずと錯覚させることで、人々に平安を売るのが、今晩屋 なのかな?
いやいや、そんなもんじゃなさそう。
おそらく、鍵は夜の対価が昼であること。
人は人として生きるうちに、何度か押し殺したい/消し去りたい過去を有するものだ。しかし、その過去は記憶の表層からは消え去ったように見えても、人の記憶の中に澱となって淀んでいる。圧し込めた過去が多ければ多いほど、現在の分岐点において、圧し込めた過去が「あの時 あぁすれば…」という後悔となって甦るのだ。
その後悔は、圧し込めた過去に纏ろう楽しかった記憶とともに甦る。
今晩屋は過去そのものではなく、後悔を、涙を拭い去る商売なのだ。だからこそ、楽しかった過去(昼)を対価とするのだ。

ラストの曲、天鏡がゆったりと始まる。その歌は徐々に力強くなり、朗々と歌い上げられる。
それに合わせ、ステージ一面に水が流れ落ちる。この水は、涙…舞台は涙の中の瞳である。

エンディングの伴奏が流れる中、みゆきさんが膝まづいて客席に深々と頭を下げる。
-幕-

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2008年12月16日 (火)

夜会vol.15(三)

-承前-

<登場人物は各場について最初だけパンフレットに書いてある通りに書きました。とはいっても、その場に登場した人物が本当にその登場人物だと言いうるのかは自信ありません(特に、安寿と厨子王)。その他の文中は適当に略します>
【起】縁切り寺
舞台:縁切寺(尼寺)
登場人物:暦売り、縁切り寺の庵主(姥竹)、元・画家のホームレス、脱走した禿、安寿、厨子王
時間設定:現代の大晦日、除夜の鐘が響くころ

場内に流れる鐘の音、照明が落ちてからもざわついていた客席が静まりかえる。
ゆっくりと流れ出す十二天のメロディーの中、舞台の前(袖じゃありませんぜ)に作られた段をゆっくりと上ってくる暦売り。

ここからの口上で、みゆきさんの仕掛け、というか問題意識がだんだん見えてくる。
・時は除夜、大晦日に暦を買う人はいるのだろうか(ここで、「わたしゃ買いますよ。安売りしてるから」と御考えの貴方…御尤もですが…ねぇ(^^ゞ)。
・除夜の鐘ってのは、大晦日に撞かれるもんだよね。大晦日は一年の締めくくり、私たち凡俗はこの日を一つの区切りとして生きている。新年の始まりに「昨年のことは忘れて今年が好き年でありますように」なんて挨拶…聞いたことありませんか。さてここで疑問…なんで一年の締めくくりは大晦日じゃなきゃいけないの?12月31日と1月1日の間は、1月28日と1月29日の間と何が違うの?除夜の鐘はこの一年をリセットする仕掛けじゃないの?
・暦ってのも、昨日(日めくりの場合ね…月単位なら昨月)の分はどうしてる?大抵捨ててるよね。これは昨日の紙を剥がすことで、昨日をリセットしていることにつながるんじゃなかろうか?
・縁切寺…一般には、夫婦の縁を切る(リセットする)ことで、人生をやり直す仕組み。この夜会では売られた子供が駆け込んでくれば、その子の人生をリセットさせる仕組み。

夜をくだされから海に絵を描くが歌われて、元画家が登場。
この二曲、タイトル『今晩屋』にもつながる伏線が隠されているようだったんだけど、か、歌詞がぁ…;;。
で、この元画家…記憶喪失なんである。しかし、何かに追われていること、何かを忘れてしまったということだけは覚えていて、その何かを探し求めているという奇妙な記憶喪失なんである。
名前まで忘れてしまって、暦売りに名前を売っていないかと問い質す。
何かの約束をしていたらしい<ここ重要
不思議なことに暦売りは彼の過去を知っているような素振りを見せている。暦売りが萱草という言葉を囁く。何かを思い出しかけているような素振りを画家が示し始める…と、そこでいきなり暦売りはここまでの料金一万円と称して手を差し出す。当然、画家は何のことやらわからない。わからないなりに「高い」と抗議…「タカイ」→「タケエ」→「タケェ」と…

ここで庵主(姥竹)登場。この人名前を呼ばれると必ず出てくる設定…画家の「タケェ」の声に呼応している。
かいがいしく、というかおせっかいというか、画家の世話を始める。嫌がって寺の床下に逃げ込む画家の足を掴んで引きずり出してまで世話を焼こうとする。この辺の庵主と画家のやり取り、結構笑える…しかし、ここは夜会である、誰も大声で笑ったりはしない(笑。
この間に、暦売りは寺に忍び込んで柄杓を持ち出している。流れる歌は私の罪は水の底
暦売りは柄杓を荷造りの中にどう納めるか考えている。そこへ庵主から逃げる画家が体当たり…柄杓は舞台の外へ飛ばされる。それも二度までも。暦売りは画家に食って掛かるが、画家は庵主から逃げるのに夢中で暦売りを相手にしない<この、暦売りの柄杓への拘りが気になるんだよなぁ。

暦売りも柄杓を諦めて、荷造りを始める。このとき歌われるのが百九番目の除夜の鐘
柄杓を入手できなかったせいか、荷造りもいささかやけっぱちな感がある。

この歌の間に寺の裏から禿登場。いかにも無邪気に暦売りの周りをうろうろするんだけど、暦売りは気がつかない。そうこうしているうちに、禿が先程暦売りの失くした柄杓を持ってきて、暦売りの後ろにそっと置く。
暦売りがヒョイと振り返って、禿に気づきびっくりする。禿はどこかへ消える。
暦売りは柄杓があるのに気づき、庵主を呼び出す。
庵主の説明で、禿が売られた先から逃げ出した子供であり、何かの約束に縛られて縁切寺へ逃げ込むことができずにいる幽霊であることが暗示される。庵主は説明を終えると、柄杓を暦売りから取り返して寺の中に入る。
ここで暦売りの独白。
約束事はその場の気持ち。嘘つく気持ちは無かろうとても、守るに守れぬ成り行きもある…売られた子供は待ちぼうけ」<ここ すっごく重要
独白のあと愚かな禿が歌われ始める。この「愚かな」というところ、重要。愚かさは王様は裸だと叫んだ子供の姿につながる。愚かなるが故にか、縁切寺というツールを使わず、ひたすら約束を信じ待っている。

禿は毬をついている。
さて、ここからがネットの一部で物議を醸しているところなんだけど…。
この毬つきを寺の床下から見ていた画家が現れて、禿と一緒に遊び始め、毬つきがバスケットボールに変わる。
この意味はなんなのか?
ここで、「安寿と厨子王」のモチーフが被る。二人とも相手を姉弟とは認識していない。しかし、その関係が切っても切っても切れないもので、幾百世を越えても彼等がつながっていることをこの場面は示しているのではないか。二人の間を行き来する毬は、二人の間で共有されていた「時」ではないか。

う、だんだん記憶が薄れてきたぞ(^^ゞ

バスケットボールに飽きたのか、画家は舞台から再び消える。禿はまた一人になってしまう。
そこに流れるのが憂き世ばなれ
この歌の間に寺の廊下から大量の紙風船が流れ出てきて、禿は無邪気に風船と戯れる。
庵主も出てきて、禿を寺に誘導する。大量の紙風船の中を、禿は縁切寺の中に消える。

暦売りは紙風船のいくつかをペシャンと潰して持ち帰ろうとしている。ここで流れるのが夜いらんかいね
いつのまにか紙風船は舞台からなくなり、鐘の音が響く。
ここで画家(厨子王)登場。潰した紙風船を碗に見立てて、
安寿との別れの場面までは思い出している。しかし、なぜ姉と別れねばならないのか、別れてから何をすればいいのか…途方に暮れている。ここで暦売りが厨子王の背後から萱草と、厨子王の別名を囁きかける。そして「都へ逃げよ、疾う逃げよ」と繰り返し囁きかける。暦売りは安寿と厨子王の離別のときを、安寿自身のように語りかける。
厨子王も、徐々に思い出し始める。己が姉を迎えに帰ることができなかった後悔を思い出しかける。
暦売りは、そこまで見届けてから「見殺しにせよ、骨肉を」と叫び、厨子王を突き飛ばす。この叫びは安寿の心中そのものなのではなかろうか。

ここから場面は急激に変わる。

姥竹が旅装束を持ち出し、厨子王に着せてゆく。その後ろで、禿が寺に火を放つ。
ここんとこ、ものすごく重要な場面、というか、見方の分かれる場面。
禿(安寿)の寺に対する思いはどこにあったのか?
紙風船につられて踏み込んでしまった「寺」の役割の否定か、あるいは、「寺」の役割を肯定したうえで厨子王を送り出した後、誰にも後を追わせないための細工か。
姥竹と禿(安寿)が扉を開けて支える中、厨子王が炎上する寺に踏み込んでゆく。
厨子王が扉の中に消えたのち、寺は轟音とともに崩れさる。(ここ、豪快)
安寿が下手に身を投げるようにして消える。続いて姥竹が上手に同様に消える。それぞれの消えたあとには藁靴が片方づつ残されている。(山椒大夫では姥竹、安寿とも入水して果てている)

すべてが終わった後、暦売りが消火器を抱えて飛び出してくる。そしてがっくりと膝を折る。
暦売りは過去をリセットするツール(暦)を売って商売しているのだから、同様な仕掛けである縁切寺の火事を止めようとしたのであろう。しかし、間に合わなかったわけである。
しょんぼりとした様子で藁靴を集め、一足に揃えて舞台に置いて、暦売りも去る。

この幕は、誰もが持っているであろう「疎ましき過去をリセットしたい」という願望、それを見掛け上実現するツールを紹介し、その一つが崩壊する様を描いている。

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2008年12月15日 (月)

夜会vol.15(二)

ハードウェアについて書き、役者さん(ファームウェア)について書いたら…ストーリー(ソフトウェア)についても書かないと収拾がつかんな(^^ゞ。

いや夜会については、数多の夜会アン(-an;精通者)がいらっしゃって深い考察をされているわけで…。
まぁ自分に収拾をつけておきたいなっ…と。以下は私の恣意的解釈なんで、間違っても根拠を示せとはお考えにならないようm(__)m
(根拠といっても、この舞台を見ていない人に伝えるのは難しいからなぁ…将来DVDを出してくれれば「あれ見て」と言えば済む話なんだけど、現時点ではパンフレットしかないものねぇ)

作劇としては、忠実に起承転結の作法を守ったものなんだな。第一幕が「起」、第二幕に「承」「転」「結」が詰まってる。だから、全体をとおした主題、起承転結の各場面についての解釈なり感想なりをメモ的に書いてみよう。

その前に…思うんだけど、夜会はいろんなところにトラップが仕掛けられていて、いろんな解釈が成り立つようになっている…だから、夜会アンが、いろんな解釈を公表してるんだな。
で、その解釈はそれぞれの人の生きてきた道程を背景に持ってるから、読んでて面白いのだな。
<私の文は面白くないだろうな(^^ゞ…と断言しておく>

【主題(改めて 極めて恣意的解釈)】
人(個人)は、人類の歴史から無関係でいられるわけではない。過去に存在した人達の足跡の上に立っている。
人が(社会的な意味で)人であるのは、過去の人々の営為の蓄積の上に立っていることの認識が必要。
ただし、この認識において、過去を全肯定する必要はない…というより、否定すべき過去も含め、過去を変えることはできない。
過去を変えることはできなくても、未来を求めることはできる。未来を求めるのに、過去を切り捨てることが必要とはいえない。切り捨てることが次の悲劇の素になる。
切り捨てた過去があるからといって、それにより永遠に断罪され続けることはない。
自分が人間であること、他人も人間であること…その当然のことを理解できれば、共に手を携えることができれば、未来は開ける。
内容総体としては「泥海の中から」を思い出させる。
みゆきさんの主題は、パンフレットのまえがきにある安寿と厨子王のその後より、あとがきにある人の一生というものはリセットなど効かぬものというところに重点が置かれている。

ところで、パンフレットのまえがきに、この物語は安寿と厨子王のその後…とある。
森鴎外の山椒大夫でもさらりと流されているが、この弟の視線はかなり重たいものがある。
・弟からの視点
-------------------------------------------------------------------
女は早くおとなびて、その上物に憑(つ)かれたように、聡(さと)く賢(さか)しくなっているので、厨子王は姉の詞にそむくことが出来ぬのである。
-------森鴎外作 山椒大夫 より--------------------------------------

姉は弟を送り出し、自らは入水して果てた。
その前に交わした約束は「これは大事なお守りだが、こんど逢うまでお前に預けます。」だった。
これは今生の再会を約束するものではなかったのか?
この約束を信じて別れた弟にとって、姉の入水はいかなる意味を持ちうるや。別れたということが、姉を見殺しにしたという後悔につながるのではないか?姉が入水した場所に尼寺を建てた…その意味は、単に故人を弔うことのみであろうか…。

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2008年12月11日 (木)

夜会vol.15(一)

実は、一か月分の生活費を投入してこんな催しに行ってた。
Photo_5
                     ↑
                  本日の食糧(^^ゞ


前の記事、ここの数少ない常連さん(なんせ一桁)にはワケワカメなものだったと思うけど、
ここは、本来中島みゆきさんのファンが書いてるブログなのだ(^^ゞ
間違っても、誰かを啓蒙しようとか、蘊蓄を垂れようとかいうブログではない<あえて表明する。

 
すぁて、本題…

・ハードウェア
劇場も一階と二階では大きく違うなぁ…と、初心者の弁。
先日の傾斜にびびってたから、恐る恐る入ってみたら…あら?ずいぶん平坦だな(?_?)
それに、舞台が予想外に近いなぁ。P列だからもっと遠いかと思ってたのに…ほこほこ(^.^)。
音も全然違う。今日の席だと、舞台で出ている音が、(場面によっては)直に聞こえた。
紙風船を潰したときの音がちゃんと舞台から聞こえたのには吃驚…あれをマイクで拾って、ミキシングして、スピーカーから出してるとしたら、凄いなぁ。
うん、この劇場ではスピーカーを使う音楽は二階席じゃまずいな。生オケだったら面白いかもしれないけど。
やっぱ、装置は凝ってるわ。2階からだと二幕最終場の舞台、緋毛氈を敷き詰めているのがわかったんだけど、一階最前列じゃあれは見えない。逆に第一幕のラストでみゆきさんが抱えてるのが消火器だということは、二階からじゃよくわからなかった。二階からだと張りぼてだった縁切寺(あれ八角堂だよな?)も、一階からだと立体感のある描き方に見える。一番違うのは、やっぱ照明、見下ろし目線だと光源が気になって見えなかった背景が細かいなぁ…と。
それと、どうしても昨年のツァー会場と比較してしまうんだけど、ここ建物の空間に遊びが少ないね。ツァーのときは始まったら最後まで一気、途中退場可、トイレ休憩ご自由に…だったから良かったけど、今回は幕間があるからねぇ。設備的に苦しい。幕間中トイレに長蛇の列、下手すれば幕間がそれだけで終わっちゃう。Goodsの販売もあれじゃ辛いだろうなぁ。
それに、閉幕してから会場内で余韻を楽しむ雰囲気じゃないというのも…まぁ、場所が場所だから、そういう贅沢を楽しみたければ近所の店に行け…ということなんだろうけど、あの音楽を聴いた後でいきなりジャンルの違うBGMは似つかわしくない。

・役者さん
みゆきさんは措いといて
香坂千晶さん:夜会だとコミカルな役が多いのかな。今回はそのコミカルさに磨きがかかったような…
土居美佐子さん:クレジットにactorとして出るのは今回からかな?禿の演技で紙風船を軽く投げてから、体を回転させるところ、風船が振袖の上に乗ったままに見えた。振袖が水平になる速さで体を回しながら、その上にある紙風船を横へ飛ばさないというのが凄い。
…でも、このお二人、今回の演技では衣装の関係もあってわかりにくいんだよなぁ。いや、二人同時に出てくるとわかるんだけど(当たり前だ)。
コビヤマ洋一さん:難しいぃ。00時発のDVDでも思ったんだけど、この人のキャラクターに舞台全体が引っ張られたいるような。
 

 

じぇんじぇん関係ないことだけど、ファンクラブのチケットとe+のチケットで印刷が違う…発売元毎に印刷変えてるみたい。なんでだろ?

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